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【街歩きと日本史】鎌倉五山と五山・十刹、山号の歴史

鎌倉・湘南街歩き

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【街歩きと日本史】鎌倉五山と五山・十刹、山号の歴史

五山制度と山号

鎌倉五山と京都五山

“五山”の制度は、南宋の官寺の制に倣う形で鎌倉幕府第九代執権・北条貞時が導入し、建武の新政を進めた後醍醐天皇や足利直義らによって五山・十刹(じっさつ)が定められた後、最終的に室町幕府第三代将軍・足利義満によって寺格が体制に組み込まれる形で、”五山・十刹の制”として確立されました。

ただし鎌倉時代の五山制度の実態については詳細が不明であり、第五代執権・北条時頼によって五山の制度が定められた後、貞時によって浄智寺が五山に含められたという見方もあるようです。

室町時代に足利義満が整えた制度では、”五山・十刹”の上に京都の南禅寺(公式サイト)が禅宗の大本山として置かれた上で、鎌倉と京都の五山、さらには各地の十刹がそれに次ぐ官寺として捉えられます。

当初は何度か寺格の入れ替えも行われたようですが、1386年には、

鎌倉五山は一位から順に、建長寺円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺

京都五山は同じく一位から順に、天龍寺相国寺建仁寺東福寺万寿寺

という、現在の形に整えられました(リンクは全て公式サイトです)。

 

五山・十刹と北山文化

鎌倉、京都とも5つの寺が指定された五山に対し、日本の制度では”十刹”には寺数に制限がなかったため、各地で10以上の寺(中世末で230)が指定されたようです。

五山・十刹の制が整えられた足利義満の時代には、特に五山を中心として、水墨画や建築、漢詩文学(=五山文学)など中国文化の影響を強く受けた文化が発信され、このことが当時の武家文化の形成にも大きな影響を与えていきます。

当時の文化は、京都の北山に建てられた山荘・金閣を中心として栄えたことから”北山文化”と呼ばれますが、武家文化が公家文化を取り込む形で栄えたことに特徴を持つ北山文化の一側面を担ったのが、”五山”が発信した五山文学でした。

 

山号

五山のいう”山”とは、お寺のことです。

一般にお寺を作ることを”開山”と言ったりしますが、寺の名前に付された山の名前は”山号”(さんごう)といいます。

「その山にあるお寺だ」という意味ですね。

例えば鎌倉五山でいえば、”巨福山(こふくざん)”建長寺、”瑞鹿山(ずいろくさん)”円覚興聖禅寺(円覚寺)で言われる、それぞれ”巨福山””瑞鹿山”が山号にあたります。

 

山号と五山制度のルーツ:天竺(てんじく)、南宋、中世日本

寺社名の前に山の名前=山号を付す制度は、中国(宋代=960年~1279年)から伝わったものですが、中国の五山制度はインドの五山制度=天竺五精舎を中国風に模したものとしてはじまりました。

ちなみに天竺(てんじく)とはインドの旧名、精舎(しょうじゃ)とは日本でいうお寺のことです。

天竺の精舎の中でも、特に格式が高かった5つの精舎が天竺五精舎(=天竺五山)で、インドの仏教史の中でもこの5つの精舎は別格であったというとらえ方をされています。

天竺五精舎の起こりは初期仏教の時代、およそ釈迦の存命中にあたる紀元前5世紀ごろの話しですが、『平家物語』の冒頭に出てくる有名な一文で『祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声 諸行無常の響きあり』と謳われた”祇園精舎”は、仏教の開祖・釈迦が存命中の拠点とした(=説法を行った)精舎であり、天竺五精舎の一つに数えられています。

元々は「天竺においては五つの精舎が別格である」ということが要所だったところ、やがて”天竺五精舎”の存在が南宋時代の中国へ伝わると、制度自体に「時の権力者が寺院勢力を自ら掌握するために、制度として利用する」というニュアンスが含まれます。

その結果、禅宗が盛んとなった唐代(618年~907年)以降の中国では、禅宗の寺の多くが山中に建てられたことから、前記した”山号”の使用が一般的となるのですが、このことから後に作られた『5つのお寺』を特別視する制度についても『五山』制度と銘打たれ、南宋政府の統制下に組み込まれました。

後に鎌倉時代の日本で臨済宗などの禅宗、山号を利用する慣習と共に五山制度が取り込まれると、前記したように、その制度は足利義満の時代に制度として確立されます。

 

北鎌倉と鎌倉五山

北鎌倉のロケーション

第五位の浄妙寺、第三位の寿福寺はJR北鎌倉駅からだとやや距離がありますが、そのほかの三山(第二位の円覚寺、第四位の浄智寺、第一位の建長寺)は北鎌倉駅に近いところに位置しているので、どちらかというと”五山歩き”は北鎌倉からのコースの方がお勧めです。

鎌倉五山が海沿いではなく山の中に多いという偏りは、禅宗(臨済宗)のお寺が好んで山野部に建てられたという経緯によっています。

 

“山ノ内”と北条氏

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の死後、”13人の合議制”と呼ばれた有力御家人による合議制の中から台頭した北条氏は、初代執権の北条時政(得宗家初代)と二代執権・北条義時(得宗家第二代)、さらには第三代執権・北条泰時(得宗家第三代)の三代で、後に”得宗専制政治”と呼ばれることになる、北条氏の本家を中心とする執権政治の土台を固めていきます。

得宗(とくそう)とは北条時政の嫡流であることを意味しますが、特に元寇後の第9代執権(得宗家第9代)・北条貞時以降の執権政治が、得宗専制政治と呼ばれます。

北条氏が権力を掌握する過程において生じた北鎌倉・山ノ内(JR北鎌倉駅を中心とする一帯で、山と海に囲まれた鎌倉の、”山”に該当するエリアです)との縁は、得宗家第二代・北条義時が山ノ内を所領(=私有地)としていたことによっているのですが、北鎌倉には源氏ゆかりの地である鎌倉の中でも、特に北条氏に縁があるお寺が多く残されています。

JR北鎌倉駅傍にある円覚寺の他にも、鎌倉五山第一位の建長寺、第四位の浄智寺、”縁切寺”東慶寺、”アジサイ寺”明月院等は、全て北条氏縁のお寺です。

なお、同じ神奈川県下には、戦国時代に小田原を拠点とした戦国大名の北条氏の跡も残されていますが、小田原の北条氏は北条早雲こと伊勢新九郎盛時(あるいは伊勢宗瑞-そうずい-)を祖とする北条氏の五代で、鎌倉の北条氏とは別の家系であることから”後北条氏”とも呼ばれます。

 

参考:”鎌倉の寺 小事典”(かまくら春秋社、平成13年6月27日)、島尾新 “東アジアの中の五山文化”(東京大学出版会、2014年1月9日)他

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