【街歩きと鎌倉史】鎌倉五山と五山・十刹、山号の歴史(五山のルーツと成立、開山・開基)

南関東/静岡・山梨
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about 鎌倉五山

ロケーション

鎌倉五山は、全て鎌倉市内の海沿いではなく山側に位置しています。

これは禅宗(臨済宗)が修行に適した静かな環境を好み、山間部や「谷戸やと」と呼ばれる奥まった地形に建立されたという歴史的経緯によっているのですが、そのロケーションからは、鎌倉五山のいずれの寺院も「閑静な環境」と共にある歴史を持っていることが色濃く伝わります。

五山のうち、第一位の建長寺第二位の円覚寺第四位の浄智寺は、いずれもJR北鎌倉駅の徒歩圏内かつ県道21号線沿いに集まっているため、まずはJR北鎌倉駅を起点とし、この三山を巡る散策が効率的です。

一方、第三位の寿福寺第五位の浄妙寺はこの限りではなく、共にJR鎌倉駅が最寄り駅となります。

特に浄妙寺は北鎌倉駅からだとそれなりに離れた場所にありますが、寿福寺に関しては建長寺から鎌倉中心部へ向かう流れで立ち寄ることも可能です。

参考

五山制度と山号

鎌倉五山と京都五山

「五山」の制度は、南宋(中国)の官寺かんじ制度に倣い、鎌倉幕府によって導入されました。

その始まりや実態については諸説ありますが、第五代執権・北条時頼が定めたという説や、第九代執権・北条貞時が浄智寺を加えて整えたという説があるほか、初期は寺格の入れ替えも頻繁に行われていたようです。

やがて建武の新政を進めた後醍醐天皇や足利直義らによって五山・十刹じっさつが定められたのち、最終的には第三代将軍・足利義満によって寺格が体制に組み込まれます(1386年)。

各指定寺院の寺格は、以下の通りです。

  • 南禅寺(京都):禅宗の最高位で、五山の上(南禅寺公式サイト)。
  • 鎌倉五山・京都五山:南禅寺に次ぐ寺格。下表参照。
  • 十刹:五山に次ぐ寺格で名目上は「十」ですが、実際には京都・関東で10を大幅に上回る数の寺院が指定され、最終的には60余に上っています。
序列 \ エリア 鎌倉五山 京都五山
一位 建長寺 天龍寺
二位 円覚寺 相国寺
三位 寿福寺(※) 建仁寺
四位 浄智寺 東福寺
五位 浄妙寺 万寿寺(非公開)

(表中リンクは公式サイトです。※:鎌倉観光公式ガイド)

五山・十刹と北山文化

五山・十刹制度が整えられた足利義満の時代

義満が京都・北山に建てた金閣を中心として栄えた文化は、「武家文化と公家文化の融合」を稀有な個性とすることでお馴染みです。その中心地の地名をとって「北山文化」と呼ばれた文化を精神的・学術的にリードしたのが、五山から生まれた禅宗文化です。

五山を拠点として発信された水墨画や建築、漢詩文学など、宋・元(中国)の影響を強く受けた禅宗文化は、「五山文学」として当時の武家文化に多大な影響を与えました。

このことは、当時の五山が単なる禅宗の拠点にあらず、最先端の知識や芸術が集まるアカデミックな社交場でもあったことを示しています。

山と寺院、山号、開山、開基、創建

山号

五山のいう「山」とは、お寺そのもののことです。

寺の名前に付された山の名前は山号さんごうといいますが、これはもともとは修行の場であるお寺が人里離れた山の中に建てられたことに由来します。

「その山にあるお寺だ」という意味が転じて、「お寺そのもの」を指すに至りました。

現在では街中にあるお寺にも山号が付きますが、例えば鎌倉五山でいえば、巨福山こふくざん建長寺、瑞鹿山ずいろくさん円覚興聖禅寺(円覚寺)で言われる、それぞれ「巨福山」と「瑞鹿山」が山号です。

開山と開基(創建)

開山とは、信仰のあり方、すなわち宗教的な場としての「お寺」を整えた人を指します。

これに対して、「お寺を創建(開基)する」とは、その信仰に経済的な裏付けを与え立派な施設などを実際に作った人を指します。

鎌倉五山の一位・二位の場合、以下の通りです。

  • 建長寺:蘭渓道隆らんけいどうりゅう開山/北条時頼開基(創建)
  • 円覚寺:無学祖元むがくそげん開山/北条時宗開基(創建)

天竺(てんじく)五精舎と五山制度

天竺五精舎と、宋代中国の五山制度

寺社名に山号を付す制度、および五山制度は、日本へは宋代(960年-1279年)の中国から伝わっていますが、中国の制度(五山、山号)自体はインドの天竺五精舎てんじくごしょうじゃを中国風に模したものとして始まっています。

それぞれの特徴として、天竺五精舎純粋な修行の聖地であったことに対して、中国や日本における五山制度では「五山」が官寺として国家体制に組み込まれることによって「聖地の権威」が政治的な権威とも一体化し、経済的な利益の源泉ともなったことが、その特徴です。

天竺てんじくとはインドの旧名、精舎しょうじゃとは日本でいうお寺を意味しますが、天竺の精舎の中でも特に格式が高かった5つの精舎が天竺五精舎(=天竺五山)です。仏教の聖地・インドの仏教史の中でも、この5つの精舎は別格であったというとらえ方をされていますが、この「別格」扱いがまずは宋代の中国に持ち込まれた形ですね。

宋代の中国が「五山制度」を導入した目的は、「自国の寺院の権威付け」にありました。

この点は日本の五山制度においても然り、となっています。

元々禅宗が盛んとなった唐代(618年~907年)以降の中国では、禅宗の寺の多くが山中に建てられたことから「山号」の使用が一般的となっていたのですが、このことが、後に作られた「5つのお寺」を特別視する制度と合わさることになるんですね。

「天竺では五つの精舎が別格である」という本来の要所が、南宋時代の中国では「時の権力者が寺院勢力を自ら掌握するために、制度として利用する」ニュアンスの色濃いものとして利用された結果、特に高い寺格を認定された寺院が政府によって『五山』と銘打たれ、南宋政府の統制下に組み込まれることになりました。

日本の五山制度の実態

導入時期には諸説ありますが、日本に持ち込まれたのは南宋の「五山制度」です。

既述のように、制度が確立された室町時代の五山の僧侶たちは、単なる修行者にとどまらず、高度な知性や語学力を活かした「外交や貿易の担い手」でもありました。

その結果、当時の五山は「単なる禅宗の拠点にあらず、最先端の知識や芸術が集まるアカデミックな社交場」となっていくのですが、彼らの先導する国家プロジェクト(天龍寺船での対外交易、外交実務、教育事業etc)は幕府に巨万の富をもたらすと同時に、当時の最先端文化である「五山文学」の知力と財力を支える強固な屋台骨となったんですね。

天竺五精舎と「鎌倉前史」

余談として、天竺五精舎の起こりは初期仏教の時代、釈迦の存命中にあたる紀元前5世紀ごろの話しですが、『平家物語』の冒頭に出てくる有名な一文で、

  • 祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声 諸行無常の響きあり』

と謳われた「祇園精舎」は、仏教の開祖・釈迦が存命中の拠点とした(=説法を行った)精舎であり、天竺五精舎の一つに数えられています。

「平家物語」リリース当時、すなわち鎌倉時代の日本の知識階層の間では、「西遊記」でお馴染み三蔵法師が記した「大唐西域記」が、国際情勢解釈のベースとなっていました(参考:e国宝大唐西域記“)。

双方のタイトルを見比べた時になんとなく伝わってくるものもあるように感じますが、史実が記された「大唐西域記」は、のちにフィクションである「西遊記」の元ネタとなった作品ですね。

「大唐西域記」は7世紀半ばに、「西遊記」はその約1000年後にあたる16世紀半ばに、それぞれ当時の中国で世に出されました。

日本には奈良時代に伝わったとされるこの「インド旅行記」=大唐西域記が伝えた祇園精舎の「リアル」は、華やかだったかつてとはかけ離れた、既に荒廃が進んだ様子でした。「平家物語」ではこのイメージ、つまり「在りし日の祇園精舎」が、「在りし日の平家の栄華」に重ねられます。

冒頭の一文に続く部分は、

  • 沙羅双樹さらそうじゅの花の色、盛者必衰じょうしゃひっすいことわりをあらわす。
  • おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
  • たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前のちりに同じ。

として「諸行無常」感を補強しますが、諸行無常すなわち「万物は流転する」と言う「真理」は、奇しくも釈迦とほぼ同時代(紀元前5世紀ごろ)を生きた古代ギリシャの哲学者・ヘラクレイトスの言葉”panta rheiパンタ レイ“としても残されています。

「平家物語」冒頭において大唐西域記が伝える史実に重ねられた「鐘の声」という日本的な響きは、一連の文章に日本固有の情緒的な「もののあはれ」を生じさせていますが、その一方で、ヘラクレイトスの名言が内包する「哲学的な理性」の言わんとすることは、ギリシャ衰亡後のローマへの変遷しかり、ローマ分裂後の西欧・東欧への変遷しかり、闘争の果てにある強制的な時代の変遷を思わせます。

「諸行無常」感の相違は、その本質こそ同種であることを感じさせるものの、洋の東西の根本的な相違を思わせるところでもありますね。

後世、奥州平泉にて、

  • 「夏草や兵どもが夢の跡」

「おくのほそ道」道中にあった松尾芭蕉が詠んだように、鎌倉時代の人々にとっては「リアル」だった権勢もまた、やがて悠久の時の流れの中において、「ただ春の夜の夢のごとし」を地でいく結末へと連なっていきました。

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