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【街歩きと日本史】北鎌倉と鎌倉五山/五山制度

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【街歩きと日本史】北鎌倉と鎌倉五山/五山制度

北鎌倉と鎌倉五山

第五位の浄妙寺のみJR北鎌倉駅からだとやや距離がありますが、鎌倉五山の多くは北鎌倉駅からのほうが近いところに位置しています。なので、五山を巡り歩こうと思ったら北鎌倉から入った方が歩きやすいことが多いです。

もちろん鎌倉五山は鎌倉駅からでもすべて徒歩で回れる距離にありますが、禅宗(臨済宗)のお寺である鎌倉五山は好んで山野部に建てられたという経緯から、より海に近い鎌倉駅からよりは、山の中にある北鎌倉駅からの方が近い、という偏りが遺されています。

 

山号と五山制度

鎌倉/京都五山と山号

時は13世紀後半、鎌倉時代の日本。

鎌倉幕府の第五代執権・北条時頼が、寺院を保護しその権力を掌握するためとして、当時の政治の中心地であった鎌倉に、”五山”制度(当時の鎌倉を代表した、5つのお寺の指定)を設けました。

続く室町時代には、同じく時の政治の中心地であった京都において、建武の新政を興した後醍醐天皇によって(鎌倉五山を模した)京都五山が制定されます。

鎌倉五山は一位から順に、建長寺円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺

京都五山は同じく一位から順に、天龍寺相国寺建仁寺東福寺万寿寺です。

ちなみに五山のいう「山」とは、お寺のことです。

鎌倉「五山」とは当時の鎌倉を代表した「5つのお寺」のこと、同様に京都「五山」は当時の京都を代表した「5つのお寺」のことを指します。

一般にお寺を作ることを「開山」と言ったりしますが、寺の名前に付された山の名前は「山号」(さんごう)といいます。「その山にあるお寺だ」という意味ですね。

鎌倉五山でいえば、「巨福山(こふくざん)」建長寺、「瑞鹿山(ずいろくさん)」円覚興聖禅寺(円覚寺)で言われる、それぞれ「巨福山」「瑞鹿山」が山号にあたります。

同様に京都五山であれば、「嵯峨嵐山(さがあらしやま)」天龍寺、「萬年山(まねやま)」相國承天禅寺(相国寺)、それぞれの「 」内が山号にあたります。

 

山号と五山制度のルーツ:天竺(てんじく)、南宋、中世日本

この「寺社名の前に山の名前=山号を付す」制度は中国(宋代=960年~1279年)から伝わったものですが、中国の五山制度はインドの五山制度=天竺五精舎を中国風に模したものとしてはじまりました。

つまり日本の五山制度の基となった、南宋における「上位5つの寺」を特別視したという制度のルーツは、仏教の源流であるインドの天竺五精舎にあるのです。

ちなみに天竺(てんじく)とはインドの旧名、精舎(しょうじゃ)とは日本でいうお寺のことです。天竺の精舎の中でも、特に格式が高かった5つの精舎が天竺五精舎(=天竺五山)で、インドの仏教史の中でもこの5つの精舎は別格であったというとらえ方をされています。

天竺五精舎の起こりは初期仏教の時代、およそ釈迦の存命中にあたる紀元前5世紀ごろの話しですが、元々は「天竺においては五つの精舎が別格である」ということが要所だったところ、やがて”天竺五精舎”の存在が南宋時代の中国へ伝わると「時の権力者が寺院勢力を自ら掌握するために」というニュアンスが制度に含まれます。

禅宗が盛んとなった唐代(618年~907年)以降の中国では、禅宗の寺の多くが山中に建てられたことから「山号」の使用が一般的となるのですが、このことから後に作られた「『5つのお寺』を特別視する制度」にしても「『五山』制度」と銘打たれ、南宋政府の統制下に組み込まれました。

最終的に鎌倉時代の日本には、臨済宗などの禅宗、山号を利用する慣習と共にこの「五山制度」が入ってきました。

余談ですが、『平家物語』の冒頭に出てくる有名な一文で『祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声 諸行無常の響きあり』と謳われた祇園精舎は、仏教の開祖・釈迦が存命中の拠点とした(=説法を行った)精舎であり、天竺五精舎の一つに数えられます。