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【blog】港町・横浜の始まりと発展
近代横浜の歴史には、概ね3期の発展期に区分できる、大まかな時系列の流れがあります。
1.とりあえず開港するにはした(開港期)
↓
2.爆発的な勢いで成長を続けることになった(発展途上期)
↓
3.成長しすぎたことの「総括」が必要になった(再開発期)
もう少し具体的には、
「1」期は、開港してから貿易港としての体裁が整っていく、幕末~明治初期まで、
「2」期は、市域全体が爆発的な膨張を続けた明治半ば付近から昭和の高度成長期あたりまで、
「3」期は、昭和半ば過ぎ、「みなとみらい21計画」が立案され、形になっていく現在まで、
の三期です。近・現代の横浜史の流れを最短距離で捉えた場合、概ねこういう流れがあります。
港町・横浜の始まり
「1」期は、中世以来の宿場町だった神奈川宿(現・神奈川区)一帯から開港地である横浜村駒形(現・中区日本大通)一帯へ、現在の横浜市域の中心が移行していった時期に該当します。
現在のみなとみらい線・日本大通り駅一帯を中心として、そこから元町中華街駅・馬車道駅双方向へと発展が始まりました。

港町・横浜の創成期で、いわゆる「横浜」と言った時にイメージされるのはこの時期に栄えた一帯です。

日本大通り・開港広場前
都市・横浜の発展
「2」期はかなりざっくりしていますが、ミナト横浜の成長の証が残された時期にあたります。

この時期の発展によって、横浜市は現在の形となりました。

港の見える丘公園内・横浜市イギリス館
なので単純に見どころといっても、みなとみらい線エリアを含む、およそ横浜市全域が見どころになり得るともいえてしまう部分なので、的(時期、テーマ、目的等)を絞ってみていく必要が出てくるところともなります。
横浜発展期、二度の転機
そんな「2」期の中、横浜の発展にとって二度の転機(=衝撃)が訪れます。
一度目が関東大震災であり、二度目が第二次世界大戦中の戦災、および戦後のGHQによる接収期なのですが、二つの出来事はそれぞれ、現在でも横浜中心部に特有の影を残しています。

山下公園前、ホテルニューグランド傍から、氷川丸。山下公園は関東大震災からの復興の一環として作られました。
双方とも、横浜村を中心として発展した急造の港町に、爆発的な人口密集が進む過程で起こった出来事でした。
都市工学などでいうスプロール現象の進行と共に、要は人が集まりすぎてどんどんカオスになっていった、その途上に発生した衝撃にあたります。
スプロール現象とは、都市の無秩序な拡大を意味する用語で、「スプロール」を日本語に言い換えて”虫食い”現象などとも呼ばれますが、国や地方の想定を上回る勢いで日本中から人が集まって来た結果、横浜の都市計画自体が「ツギハギ」の繰り返しとなっていきます。
ただでさえ「ツギハギ」だらけだったところに、天災と人災、二度の衝撃が加えられたわけです。
結論として、行政としてはそこまで「横浜」が大きくなったこと、度重なる混乱が生じたことに対し、どこかで明確な対策を打ち出す必要がありました。
みなとみらいと「横浜再開発」
その結果出てきたのが「みなとみらい21計画」という市肝入りの横浜再開発計画で、昭和の後半以降、この計画に基づいた中心部の大規模な再開発がはじまります。
その象徴であり中心となったのが現在のみなとみらい地区です、というのが「3」期への流れにあたる部分です。
高速湾岸線(横浜ベイブリッジ)の開通やランドマークタワーの竣工、みなとみらい線の開通など、目に見える形で花を開いていった時期が平成期、元年から現在に至って、未だに再開発は継続しています。

横浜港上から、赤レンガ・ランドマークタワー・クイーンズスクエア