【東京街歩き/東京グルメ】駒形どぜう

東京街歩き

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【東京街歩き/東京グルメ】駒形どぜう

“駒形どぜう” ロケーション

駒形どぜうは隅田川傍に通された江戸通り沿い、浅草寺からも傍にある、昔ながらの下町のお店です。

お店の傍には東京スカイツリーも見えていますが、

スカイツリーは駒形どぜうの東側で、お店の北側には浅草寺が位置しています。丁度台東区と墨田区の境目当たりのところですね。

足が車だと飲めなくなるのがとても残念なのですが、ノンアルコールで観光メインということであれば、付近には格安の駐車場(区営雷門地下駐車場)もあります。

駒形どぜうでご飯を楽しむときに限らず、浅草方面に出向くときには本当にこの駐車場が便利なので、お酒を入れてお腹いっぱい楽しむために銀座線もしくは浅草線を使うか、それとも目的を絞り込みつつ利便性を取って車を使うかは、毎度毎度悩ましいところとなるポイントですね。

 

駒形どぜう

東京の下町について色々思うところはあったとしても、元々浅草にはドジョウ鍋を食べに来たのですということで、やはり本番はお店に入るところから。

まずはお品書きから。

メニュー一つとっても中々風情がありますが、ちなみにこのメニューはランチタイム用のもので、通常メニューだともう少し立派なお値段となります。

駒形どぜうでは座敷席とテーブル席を選べるのですが、この日はテーブル席にて。

ドジョウを食べに来たのだからということで、どぜうなべを頂くことにしました。

まずはセットになっている田楽と、

どぜう汁。

そしてメインのどぜう鍋。

このお鍋をグツグツと煮ながら、テーブル席に備え付けで用意されているネギを、好みで鍋に。

ラーメンでも鍋物でもネギは多めが好みなので、グツグツとおいしそうに煮込まれているどじょう一面に、遠慮なくどかんといただきます。

さらには唐辛子をかけて、食べごろになるのを待ちます。

ネギにまぶした唐辛子、煮込まれているドジョウ、ドジョウの旨味が染み出たようなだし汁、「かつて」を思わせる木箱に鉄製鍋と、見ているだけでもそそるビジュアルですね。

写真を振り返るだけでお腹が空いてきそうですが、これがまずいわけがないということで、メインのドジョウ鍋をはじめとして、どれもこれもおいしいものばかりでした。

ちなみに、写真には写していませんでしたが、もちろんライスもついてきます。

なぜか冬になると食べたくなるどぜう鍋。毎年年末に一度は食べに行くのが習慣となっていたのですが、昨年、一昨年はなんとなく足が伸びず。

また機会があれば、是非どぜう鍋を楽しみに行きたいです。

 

駒形どぜうの沿革と「大御所時代」

「どぢやう」と「どぜう」

秋葉原や上野からもほど近い、皇居からもそれほど遠くないところに位置している駒形どぜうでは、店名が示す通りのドジョウ料理の他、クジラ料理、冬季限定でナマズ料理も楽しめます。

「どじょう」が「どぜう」と表記されている所以は、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた江戸時代にあるようです。

「文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらった」(“駒形どぜう”公式サイトより引用)ことが始まりになっているとのこと。

余談として「どぜう」表記以来お店も繁盛するようになった、そのことを知った他のお店も追随するようになって、「どぢやう」表記から「どぜう」表記が一般的になったとのことです(”駒形どぜう”公式サイトより)。

ということで「どぜう」表記発祥のお店でもあった駒形どぜう。お店の創業は件の文化3年の大火の5年ほど前、1801年=享和元年です。

 

将軍家斉と大御所時代

駒形どぜうが開業した1801年は、徳川15代将軍の中でもダントツの最長である50年に渡って(1787年~1837年)将軍を勤めた、11代将軍徳川家斉の治世期、いわゆる「大御所時代」の初期にあたります。

徳川家斉に次ぐ「長期在職」第二位は、8代将軍徳川吉宗の29年(1716年~1745年)なので、50年に及ぶ将軍在職期間がいかに突出して長いかというあたりを推しはかることも出来ますが、家斉は将軍引退後も前将軍=大御所として、自身の死に至るまで4年ほど実権を握り続けました。

寛政の改革を実行した老中松平定信が老中を辞した後の家斉の将軍在職期間(1793年~)と、「大御所」となった家斉の死によってその施政が終わるまで(~1841年)の期間の政治は、後に大御所となる将軍家斉が実権を握っていた期間(1793年~1841年)の政治だったということで、大御所政治と呼ばれます。

家斉の将軍在職期間は50年、大御所政治は48年。厳密には双方に若干のズレがありますが、実質ほぼ同じ長さを持っています。

江戸時代の三大改革のうち二つの改革、家斉の将軍就任直後に老中松平定信によって進められた寛政の改革と、家斉の死後、老中水野忠邦によって進められた天保の改革に挟まれた政治が大御所政治、政治を含めて時代を総称する場合は「大御所時代」です。

「寛政」→「大御所」→「天保」の流れの大局的な特徴としては、「大御所」前後が厳しい時代だったことが挙げられます。

汚職や金権政治(老中田沼意次が主導したといわれる、賄賂政治)が横行していたといわれる時代の反動である「庶民には厳しすぎるとも受け取れた時代」(寛政の改革期)が、「大御所」前の時代、社会全体の気風が緩んだ時代だったといわれた大御所時代を経て、直後から「引き締め」を旨とした天保の改革が始まりました。

引き締めと引き締めの間に緩い「大御所時代」が到来した理由には、他ならぬ徳川家斉が持っていた気質に起因する部分も多分に含まれていたのでしょうが、時の狂歌で「白河の 清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と謳われた庶民の本音を踏襲したかのような時代の到来によって、江戸の町民文化は集大成の時を迎えます。

 

天災と繁栄と大御所時代

なのですが、という話ですね。

そもそも大御所時代の前後に大きな改革が必要とされた理由には、寛政・天保共、深刻な飢饉対策や、飢饉を理由とする打ちこわし対策等、深刻な天災の発生に起因するものが含まれていました。

松平定信や水野忠邦でなかったとしても、質素を旨とすべきだと捉えるに足るだけの理由が、あるにはあったわけです。

寛政の改革は田沼政治への反動の他に天明の飢饉対策、天保の改革は「大御所時代」後の引き締めの他に天保の飢饉対策をそれぞれ主目的に含みますが、二つの改革の間に位置する大御所時代の世相を映す社会的事件としては、歴史的大火(”どぜう”表記のきっかけとなった江戸三大大火の一つ、文化=丙寅の大火)の発生、歴史的飢饉(江戸三大飢饉の一つである、天保の大飢饉)の発生、一揆や打ちこわしの件数激増、天保の大飢饉に起因する大塩平八郎の乱発生など、割と物騒なものばかりが挙げられます。

その反面で、医学や科学の発達、農業技術の発達、工業技術の発達、軍事技術の発達、文学・芸術の発達があった他、江戸の町人文化(文化・文政期に円熟の時を迎えた、いわゆる化政文化)がピークを迎え、庶民の旅(参・『江戸の旅』『江戸の旅文化』etc)が大流行したことなど、明るい話題もまた、時代の特徴となりました。

危機の時代だったのか、それとも繁栄の時代だったのか。わかりにくいといえばわかりにくい、中々カオスな時代ではありますよね。

その結論は、深刻な環境下、それでも文化的発展を遂げるだけの余地が残された時代だったのだといったあたりに収れんしそうですが、そもそもこの時代にもたらされた文化的な繁栄は、家斉自身が「何か画期的な提唱をしたこと」によってもたらされたのではなく、逆に「家斉が名君らしいことを何もしなかったこと」が幸いする形で訪れました。

「親がなくとも子は育つ」を地で行ったわけです。

このことがまた「大御所時代」のカオスっぷりに拍車をかけているのですが、少なくとも将軍自ら庶民を追い込むような規制とは無縁であったということで、衣食足りた庶民たちの間では、精神の自由を謳歌し、学問を奨励する空気が生まれました。

江戸の町人文化の円熟期は、その賜物だったわけです。

要は歴史的天災等がなければ、あるいは政情も人々の暮らしもただ安定して栄えることが出来ていたのではないかと推定できなくもない面を持つということで、財政難への対応や災害対策が危急の政策を必要とした反面、庶民社会が繁栄を謳歌したこともまた、大御所時代の特徴となりました。

 

大御所時代の終焉と、近世日本の終焉

大御所時代はまた、寺子屋教育熱がピークを迎えるほど盛んだったという時代でもあります。

大御所=放蕩将軍の時代はまた、庶民に広く教養が欲された時代でもあったのだということで、このことが巡り巡って、ほどなく訪れる幕末の乱世に、歴史的な偉人を多数輩出し得たベースとなって行くのですね。

仮に列強の外圧が無かった、その結果としての開港や開国がなかったとしても、以降何らかの形で日本社会が大きく変貌を遂げることになっていたかもしれない、そんな新しい時代の到来を思わせるポテンシャルを持った時代が、将軍家斉の大御所時代でした。

ということで少々寂しい話しになりますが、ほぼ大御所時代の終わりと共に訪れたのが、江戸幕府終焉へのカウントダウンでした。

これもやはり、ひとえに時の将軍の統治能力云々によっていたのだというよりは、概して時勢に影響を受けたといえる部分が色濃い話しですが、まずは家斉の死後、大御所政治が終わって12代将軍徳川家慶の時代(1841年~)に入ると、早々に始まったのが老中・水野忠邦主導による天保の改革です。

が、不運にも、幕府にとってはこれまでのツケを払わされる形で、日本史の流れが一気に変わりはじめます。

第一に、例えば天保の改革にその典型があったように、打ち出される政策の実効性についてもまた、的を射ない、効果的でないことが多くなりました。経済構造や物流が変化したことに加え、幕府の権威も衰えたため、政策遂行自体が不可能となる場合もあったためです。

簡単に言うと、モノづくりが進化を遂げたことによって、人々の生活態様が必ずしも農業を中心としなくなった、その結果農業を中心とした社会を想定する幕府の政策が時代にそぐわなくなっていったわけです。

「弱り目に祟り目」と言う奴で、これより先幕府の権威も低下の一途を辿り、諸藩に対して「凄み」が効かなくなっていきます。

その背景には、幕府が上手く対応できなかった「新時代」への変化に、後に討幕の主勢力となる西国の雄藩(薩長土肥)はいち早く対応できた事実があったことも挙げられますが、内政の事情だけを見たとしても、「終わり」のはじまりが鮮明となっていきます。

その上で第二に、結果として幕府にとっての致命傷となった、列強からの外圧も強まっていきます。

11代将軍徳川家斉の大御所時代から12代将軍徳川家慶時代への過渡期、19世紀半ばの「海の外」は、アメリカ独立戦争やフランス革命、さらにはナポレオン戦争後に訪れたウィーン体制を崩壊へと向かわせた、”1848年革命”の時代です。

“1848年革命”の時代は、「一部特権階級とそのほか大勢」が社会を構成する絶対王政の時代が、いよいよ終焉の時を迎えようとしていた時代にあたりますが、日本海の向こうに位置する中国大陸では、清王朝がアヘン戦争の敗戦によって植民地時代のはじまりを迎えようとしていました。

気が付けばもはや開国が不可避となる時代が目の前まで迫ってきていた、否が応でもそのことを知らされてしまう時代へと、天下泰平の世は引きずられていったわけです。

開港、開国後、日本は幸運にも列強の植民地にならずに済んだということで、「ザンギリ頭(=ちょんまげを結わない頭)を叩いてみれば 文明開化の音がする」時代の華やかさに対してもそれはそれでいいものだとは思いますが、幕末への流れ、特に大御所時代の庶民文化を思う時には、古き良き時代に対する一抹の郷愁を感じずにはいられないというのもまた、多くの人の本音だったりするのではないでしょうか。

新旧のどちらがいい悪いではなく、かつての時代に思いをはせる時、色々なものが胸中を去来することになる時代ではあるんじゃないかなーなんて、思ったりします。

付近には江戸時代以来の馴染みである吾妻橋が架けられ、古代以来の由緒がある浅草寺の傍には、文明開化の時代以来の花形バーである日本初のバー、神谷バーもある、少し遠くには平成オープンのスカイツリーも見えるというような環境下にある東京の下町方面、中でも浅草界隈に出向いた時って、しばしばそんなことを思わされたりします。

 

アクセス

銀座線・浅草線の浅草駅からも徒歩圏内です。車の場合、お店の最寄りに台頭区営の雷門地下駐車場(旧日光街道沿い、雷門正面付近)があります。

横浜出身・在住。現在、主に横浜(みなとみらい線沿線中心)の街歩きガイド記事を書いています。鎌倉・江ノ電沿線街歩きや箱根エリアの他国内小旅行記事をはじめ、その他の話題もボチボチ。サイトへのご意見・ご感想等々は、お手数ですがPCからお願いします。

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