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【青春18きっぷの旅/初日】旧中山道・奈良井宿の昼と夜
奈良井駅着、宿場町までの駅周辺
中央本線の奈良井駅に着いたのが夕方少し前の時間、仮に塩尻で食事をとらずに進んでいればあと1時間早くつけたのですが、食事抜いてまで先を急ぐ必要性もあまり感じなかったので、「道中昼食」を組み込んだプランを作成しました。
ともあれ、ある程度しっかり奈良井を見たいのであれば結構きわどい時間だということは計画段階で十分把握していたので、駅からは先を急ぎます。
そこはかとなく”君の名は。”の聖地となった飛騨古川駅ぽく見えたりもする、木曽路真っ只中の奈良井駅。
昔であれば、中山道を歩いてきた旅人が木曽路の山中でたどり着いた宿場町が奈良井宿だったということになるのでしょうが、現在も鉄道駅が山と山に囲まれる形で作られています。
駅を出て左手方向にに見えるのが、旧中山道の宿場町・奈良井宿の入り口です。
多少歩くとはいえ、言うほど歩くわけでもない、奈良井宿は実質駅のすぐ傍にあるのですが、奈良井駅から奈良井宿までの”多少の距離”の中に、早速いくつか案内板が出ています。
この案内板がまた、気分を盛り上げるのに一役二役買ってくれている感じですね。
いよいよ奈良井宿のはじまりという地点にも案内板。
一本道沿いにかつての宿場町の機能が残されているので道に迷うことはないでしょうが、一軒一軒の目当てのお店を探そうとする際には多少骨が折れるかもしれません。
かつてはその繁栄が「奈良井千軒」と称えられた、中山道沿いの大宿場町です。今でも端から端まではそれなりの距離がありますし、全体を地図で見れるとやはり安心できます。
実用的な部分以外でも、案内板があることによって観光気分も盛り上がってきますよね。
入り口付近にあるお寺。
観光案内所や観光施設でお話を伺ってみると、本当に先祖代々のご近所さん同士がずっと奈良井宿を盛り立ててきたとのことで、観光旅行で楽しむ分にも常にアットホーム感がありました。
「今とかつてのつながり」的な部分でいうと、例えば、宿場町沿いに作られた家にかけられた表札(家ごと、施設ごとに屋号は異なります)
結構色々なところにかけられていて、もっというとこの手の表札は他の旧街道沿いでもみかけることがあるのですが、これはかつての宿場町時代の屋号です。
奈良井宿の場合、観光案内所で伺った話によると、同じ苗字の家が何軒もあるので苗字で呼んでもわかり辛い(〇〇さん、といっても、どこの〇〇さん? となってしまうことが多いようです)、だから昔からの屋号で識別する、その方がわかりやすいということでもあるようです。
奈良井宿
奈良井宿が中山道の宿場町に指定されたのは1601年。ほぼ五街道の整備が決められた時点でのことのようです。
東海道沿いの宿場町である神奈川宿に状況が似ていますが(奈良井宿と同年の1601年、東海道の神奈川に宿場町が置かれました)、五街道整備が決められた段階で宿場町に指定されたということは、恐らくそれ以前からの機能が認められてのことでしょう。
この点からは、宿場町としての奈良井宿のルーツは江戸時代以前にあるのではないかと推定することもできますが、その昔、中山道の宿場町時代の奈良井宿は「奈良井千軒」と呼ばれたほどの繁盛を見せた大宿場町だったようです。
宿場町の向こうに見えているのはまさに木曾路と並走する山脈です。
高地にある奈良井(海抜約1000メートル)よりもさらに高いところに見えている稜線は、ざっくりとした方向的には御嶽山の最高峰である剣ヶ峰に連なっている稜線ではないかと思いますが、中山道の木曽路は、この山脈のふもと部分にあたる高地をなぞるように通されています。
奈良井宿の街並みに自然に溶け込んでいる”酒造・杉の森”(残念ながら現在は休業中のようです)。
創業が寛政5年(1793年)とありますが、時は徳川幕府11代将軍・徳川家斉の時代の創業です。さりげなくさらっと書かれていますが、実に200年以上続いていた会社ですね(現在の会社の平均寿命は大体その十分の一、20年~30年程度だといわれています)。
ところで、寛政年間(1789~1801)といわれて年号的にピンとくるものとしては、やはり寛政の改革でしょう。
飢饉や一揆、打ちこわしなどで世の中が荒れていたことと合わせて、時の有力者であった老中・田沼意次がわいろを常態化させたということで、そのすべてを直していこうと老中・松平定信が立ち上がったのが寛政の改革です。
松平定信自身のおじいさんである徳川幕府8代将軍・徳川吉宗の施政(享保の改革)を理想として進められた改革は、最終的には「清きに魚住みかねて」と庶民の反発を招き、さらには将軍の不信をも買って失脚してしまうわけですが、その失脚が寛政五年のことでした。
ちなみに寛政年間の後、19世紀初めの文化年間(1804年~1818年)と文政年間(1818年~1831年)を通じて江戸の庶民文化はピークを迎えます(化政文化の時代)が、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(含・18禁要素)がベストセラーとなり、歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』や葛飾北斎の錦絵『富岳三十六景』が広く庶民の支持を受けたこの時代はまた、庶民の街道旅行が全盛を迎えた時代でもありました。
着眼点を変えると、当時庶民の旅行熱がピークを迎えていたからこそ、十返舎一九や歌川広重、葛飾北斎が台頭し、かつウケたのだということでもあるでしょうが、海外からの開国要求がかかってくる前夜にもあたった寛政年間や化政文化の時代を偲ばせる施設が、奈良井宿のメインストリート=旧中山道沿いには今も普通に保存されています、ということでした。
この点、明治時代の道路改修の際、中山道のこの区間が(ある意味幸運にも)国道指定から外されたため、かつての姿が後世に残されることとなったのだという事情もあったようですが、世の中何がどんな奇貨として働くことになるのかなんてわからないものですね。
他、「かつて」を偲ばせるものとしては、宿場町内の街道沿いのところどころに、今でも煮沸すれば飲用として使える湧き水があったりもします。
その昔は横浜の山手でも(例えばビヤザケ通り沿いや元町公園など)飲用に適した、それもかなり良質の水が湧いたようですが、それも今は昔の話し。
横浜もかつてはこうだったのかな、なんて思いつつ触れた湧き水は冷たくて気持ちよかったです。
地元の人以外の車での通行はご遠慮ください、というメインストリート。ここがまさに旧中山道だった道です。
線路の幅や車の通行に合わせてかっちり道幅が作られていなさそうに見えるところなど、ぱっと見でもすごく落ち着いた印象を与えられる道ですが、現在地元の小学生~高校生の通学路としても使われているようです。
歴史の世界の中に生きている「今」という感じ、どこか羨ましく映りました。
こういう道だと所々に停められた車や、たまに走ってくる車にしても風景の一部としていいアクセントになってくるわけですが、それにしてもかつて、例えば150年前や200年前の奈良井宿を切り盛りしていた人たちは、まさか遠い未来にはこの街道沿いを鉄の塊が走る時代がやってくることになるなんて、夢にも思わなかったでしょうね。
まさに今というよりは少し懐かし目のところで、ナショ文字の看板。
ブランドを使用していた松下電器がパナソニックになって久しい今日この頃ですが、随分久しぶりに見た気がします。
この街並みを歩いての観光であれば、やはり「かつて」が残された跡をきちんと見てみたくなります。時間が時間だったので見れる範囲も限られてくるだろうというのは承知の上で、そのあたりを観光案内所で伺ってみたところ、二軒の古民家(元櫛問屋の中村邸と、上問屋資料館)を勧めてくれました。
元櫛問屋 中村邸(塩尻市指定有形文化財)
現在、奈良井宿自体が重要伝統的建造物群保存地区として文化庁の指定する保存対象になっているようですが、その動きが出来るきっかけになった民家が、元々は江戸末期の櫛の問屋さんだったという中村邸です。
写真正面やや左あたりにある「中村屋 御櫛所 利兵衛」と書いてある白い扉を開いて入ります。
中に入ってみると、風格のある古民家そのものといった雰囲気の空間が広がっていました。
手前にある囲炉裏、奥にあるかまど共(どちらか片方のみだったかな? 確か両方だと伺った記憶があるのですが、細かい部分は少し忘れてしまいました、すみません)、昭和の頃まで使われていたようです。
中には広い空間があるのですが、一階のみではなく、二階にも通じています。
二階に上がっていく階段は、横から見ると棚になっています。
発想的には今でいうところのロフトベッドの元祖みたいなものでしょうが、既に江戸時代の日本にこういう階段があったんですね。
もう少しいうと、この階段、上りきった後で一階と二階の間に(階段をふさぐ形の)天井を出すことが出来たりもします。
階段最上部の手前側から板を引っ張り出し、階段を隠してしまって天井にするという作業によって、階段経由の二階への通路がふさがれ、二階は隠し部屋状態になるんですね。
これが一階にあった囲炉裏の火から出た暖気を一階にとどめておくための仕掛けになっているのだ、ということです。
確かに中村邸の一階は、天井も高いんですよね。
元々高い天井はいかんともしがたくとも、なんとかなるところでは暖気を抑えておかないと、ただでさえ寒い高地の冬、熱は簡単に逃げていってしまいますからね。
この辺りの知識はガイドさんに民家の中をガイドしていただいたからこそ知れたというような話ばかりなのですが、もう一つ、隠れた気遣いとして。
二階の床の間のような空間の上にはめこまれた小さなふすま、これ実は少し傾いているんです(上部が前に、下部が奥にずれている形)。なぜかというと「ふすまの絵が来客によく見えるために角度が付けてあるんですよ」とのことでした。
正面から撮った写真だと少しわかりづらいのですが、近くで見てみるとはっきり角度が付いているのが分かりました。
へー! すごい細かいところにまで神経が使われているんですねと感心しながらまじまじと見させていただいたのですが、驚きポイントはもう一点ありました。
なんとこのふすま、裏側にも絵が描いてあるんですよ。
これも季節によってお客さんの目を違った楽しませ方をするためにこうなっているのだということで、心遣いがこまやかなら芸も細かいですよね。
ちなみに、ここは茶室として使われていた部屋だったようです。
こういう細かいポイントを他にも丁寧に何点かガイドしていただいたあと、元々は櫛の問屋さんだったということで、その櫛も保存されているとのこと。
今でも十分実用に供するようには見える、むしろものによってはこちらの方がよほど高級に見えるという、江戸時代には既にこんな完成度の高い(?)櫛が流通していたんだと改めて感心しました。
上問屋資料館(国指定重要文化財)
続いて訪れたのは、江戸時代の最初期から明治維新に至るまで問屋かつ庄屋だったという、上問屋資料館。中村邸同様、文化庁によって「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、保存の対象となっている建物です。
ここで言われている「問屋」とは、一般的に言われる卸売業者さんのことではなく、宿場町において人馬継立(宿場町と宿場町の間の馬・人に関する交通取次)や助郷業務(それらの業務の遂行や、業務かかわる人たちの斡旋等)を担っていた機関のことを指します。
今風にいうなら旧街道における鉄道駅や郵便局のような機能を持っていたところで、ここが欠けると宿場町としての機能を果たさなくなる、宿場町の宿場町たる機能を請け負っていたところですね。
そんなルーツもあってか、明治維新後、明治天皇が中山道沿いの地を巡幸された際には、現在の「上問屋史料館」に行在されたとのことです。
今もその部屋が施設内に保存されています。
上問屋資料館も、やはり中村邸同様内部が奥に広い古民家で
表玄関からすると奥方向に庭がある他、
建物の中央付近にも木が植えられているスペースがあります。
二階への階段は、横から見ると箪笥として機能していることが分かります。
階段としての機能を持っていて、もちろんその意味では今でも実用に供しているのですが、結構急な階段でもあるので、慣れるまではゆっくりの上り下りになります。
外から見えにくく、中からは外の様子を伺いやすいという格子戸は、中村邸にも上問屋資料館にも、他の建物にも使われています。
ほぼ江戸時代の全期間を知っている上問屋資料館は、内部も広く、風格のある建物でした。
御宿 伊勢屋
今回の旅行(青春18きっぷ旅)を企画したとき「奈良井宿を目的地に含める」ということは早い段階で決めていたのですが、それじゃどこで宿を取るか、という問題についても同じくらい早い時期に決めていました。
「奈良井宿」で宿屋検索したときに、一番わかりやすいところに候補として出ていた宿がまさにイメージ通りの宿だったので即決したという感じだったのですが、その宿こそが伊勢屋でした。
昔の宿場町の面影がそのまま現在に持ち込まれたかのような外見、格子戸から中山道を臨める部屋にも泊まることが出来るとのことで、ここも即決しました。
新旧が融合したお部屋は居心地も抜群(奥にある布団は、念のため持ってきた「冬用」の掛布団)で、
障子の向こう側、格子戸の外には中山道もばっちり見えていました。
奈良井宿の夜
奈良井の夜は案外早いですが、宿をきちんと取っていれば特に心配はいりません。
夕食にしても割とガッツリ食べられるので、よほど夜更かしでもしない限りは「寝る前にお腹が空いて眠れなくなった」みたいなこともないでしょう。
逆に昼食の時間が遅めだった、あるいはまだお腹がすききっていないというような状態で夕食の時間を迎えた場合「食べきれない」となってしまう場合もあるかと思います。
食事のクオリティについては、どれもかなりおいしいものばかりです。
食堂についても結構広く、かつ旧宿場町という雰囲気も持っていて、期待通りでした。
食事後の時間、例えば友達同士の旅行で夜中まで飲もうぜ!的なことを考えている場合は、お酒やつまみは予め買っておいた方がいいでしょう、とは思います。
今回は一人旅だったのでその辺の調整は特に不要だったのですが、食事後に不覚にもうとうと。
小一時間ばかり仮眠をとる形になってしまったのちに、夜景撮影に出ました。
どこが見どころなんだろう、全てが見どころかな、などと思いながら、久々にデジタル一眼レフ+三脚の「夜景セット」をもって外出。ISO感度を4桁に設定し、シャッタースピードは思い切り遅く、さらに街道沿いにあった街灯の明かりを借りる形での撮影となりました。
実際には通り沿いはかなり真っ暗で、スマホのカメラではほとんど写りませんでした。
もちろん歩いている人間の目には前方がはっきり見えていますが、視界に入ってくるあるがままをそのままカメラに収めようとしても、それはなかなか難しかったです。
ただし、写真ではなく街並みの中の光量として考えるのであれば、ここが暗いというよりは、むしろ都会の夜が明るすぎるのだろうと捉えるのが正解かもしれませんよね。
というのも、写真には撮れなかったのですが、夜空を見上げたら星空がかなりきれいだったんですよ。夜になったら暗くなって、空を見上げたら星がきれいで、そういうのが当たり前の風景なんだろうなと、なんとなく思えてもきました。
そんな感じで、ところどころにある明かりを利用しつつの、夜の街道撮影。今日一日の日中の活気が、夜になって眠りにつきつつあるって感じに見えていました。
しばしの夜景散歩の後、宿泊先だった伊勢屋着。
都合30分程度の「夜景撮影さんぽ」でしたが、翌日も早いということで、軽い晩酌後にそのまま寝床につくことにしました。
(続く)