【国内小旅行/ドライブto新潟】世界遺産・富岡製糸場へ

2018夏 小旅行ドライブto新潟

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【国内小旅行/ドライブto新潟】世界遺産・富岡製糸場へ

道中を楽しむことも目的に含めた、新潟へのドライブ小旅行。初日午後、最初の見学スポットとして、世界遺産となった富岡製糸場へ立ち寄りました。

 

ロケーション

世界遺産・富岡製糸場は、国道254線で藤岡を通過してさらに西進、約30分ほど走ったところにあります。

その名の通り蚕の繭から生糸を作るための工場だったところで、1987年(昭和62年)まで現役稼働していました。

電車の場合、上信電鉄の上州富岡駅が富岡製糸場の最寄りです。

上信電鉄は元々養蚕業と交易のために通された路線(上野鉄道)が母体になっているので、利便性については現在でも車に負けず劣らず。「世界遺産の最寄り駅」であることが売りにされている上州富岡駅と富岡製糸場の間には、ランチを取れるレストランもたくさん用意されています。

車の場合、周辺にはお土産屋さんと共に多数の駐車場があるのですが、施設自体には駐車場はありません。周辺の街並みも似ているといえば似ているので、停めた位置をしっかり確認しておくことも結構大切です。

 

製糸業と製糸場、歴史的な経緯

今でいう車、鉄鋼、半導体にあたる輸出品目が、かつての日本にとっては生糸であり、お茶であり、お米だったというあたりに時代を感じたりしますが、開国まもない日本が国際社会で独立自尊を貫くためには、他国に依らず自立すること、通商で強みに立つことが不可欠でした。

そんな折、貿易で世界と渡り合うための主力品目として、お茶・米と並んで生糸に白羽の矢が立ちます。

ヨーロッパの養蚕地を有していたフランスやイタリアでは蚕の病気や産業構造の転換(軽工業主体から重工業主体へ)によって、中国ではアヘン戦争によって、それぞれ養蚕業・製糸業が振るわなかった中、交易では「生糸」に改めて力を入れていくという政府の方針の下、1872年(明治3年)に富岡製糸場の設置計画が立案され、1874年(同5年)に操業が開始されます。

1893年(明治26年)に民営化されると、その後も主力産業である生糸を国内でリードし、民間の製糸工場として1987年(昭和62年)まで操業を続けました。

ちなみに工場の操業停止後は、最後に製糸場を保有していた法人(片倉工業)が、現役時の姿で保存することに粉骨砕身した結果、極めて良好な状態で製糸場が保存されます。富岡製糸場の保存・管理は2005年(平成17年)に富岡市が引き継ぐと、2014年(平成26年)には「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産に登録されました。

ということで、なぜ一製糸工場とその付近一帯が「世界遺産登録」という形で注目を浴びることになったのか、富岡製糸場の付加価値は一体どこに宿るのかと言えば、かつての日本の製糸業に国を支え、かつ社会を変えていくだけのパワー=影響力があったことに宿ります。

時の日本にとってのキラーコンテンツである製糸業をリードしたのが、富岡製糸場だったわけです。

 

富岡製糸場へ

さて、そんなこんなで富岡製糸場、入り口付近からの風景です。

つきあたりに見える赤レンガの建物は東置繭所、この奥にもう一棟、ほぼ同じ大きさの西置繭所があります。ちなみに「置繭所」の読みかたですが、公式パンフには「おきまゆじょ」とカナがふってあります。

門外からも見える東置繭所内部は、富岡製糸場の歴史を説明したボードなどが展示された、観光案内のためのスペースとして使われています。その奥に位置する西置繭所内部は現在補修工事中ですが、工事の様子を見学することができます。

 

検査人館/生糸検査所

門を入ってすぐ横には、券売所とその並びにある管理事務所。

管理事務所は、製糸場操業時に検査人館として機能していた建物ですが、検査人とは、出来上がった生糸の質をチェックする人たちのことです。

ちなみに、貿易港である横浜や神戸には生糸検査所が置かれていました。横浜では、現在その名残が馬車道地区に残されています

生糸の大量生産が進むにつれて目立つようになった粗悪品対策の結論が検査人の設置にあるのですが、検査人館は、検査人の寄宿舎として使われていました。

富岡で作られた生糸は、富岡での検査、横浜での検査を通過した後、横浜港を通じてアメリカへと輸出されます。

生糸は新たに開かれた貿易港・横浜と、生糸の原産地である富岡を結ぶ縁を生み出したわけですが、この縁は、実はもう少し深い絆にもつながります。

 

生糸と「三渓園」、横浜銀行

富岡製糸場は、ただ一方的に貿易港へと「商品」を送り出していただけでなく、「三渓園」(横浜を代表する日本庭園)を作った原家の所有になった時期を持ちます(明治35年〜昭和13年)。

原家は当時の横浜で有名だった生糸の貿易商ですが、事業を興し財を成した原善三郎さんの孫娘の婿である原富太郎さんが、国から三井に払い下げられた官営工場を買い取る形で、現地の工場=原富岡製糸場(原合名会社)経営も兼務しました。

富岡製糸場が「原富岡製糸場(原合名会社)」と呼ばれた期間は、官営だった時期から数えて二番目、操業停止まで製糸場を保有していた「最後の経営者」片倉工業の一つ前にあたります。

余談ですが、現在でも横浜銀行の支店が群馬県内に3店舗ある(埼玉・千葉・茨城・栃木は店舗無し)のも、生糸によってつながった縁の名残りだといわれています。

 

生糸と「上野鉄道」「横浜鉄道」

生糸生産が全盛期へと向かう中、貿易港である横浜の近隣地区では、生糸貿易のため交通手段の利便性向上が望まれました。

例えば八王子や奥多摩地区でも養蚕業が盛んであったため、同地の養蚕業者にとっては貿易港をより近くすることが悲願となり、その結果私鉄の横浜鉄道(現在のJR横浜線の母体)が開通します。

ほぼ同様の流れは富岡市の養蚕業にもあって、現在の上信電鉄は、やはり生糸運搬や養蚕業のために開通した「上野(こうずけ)鉄道」にルーツを持ちます。

富岡に国家肝入りの工場が作られ、その工場が規範となって国中の製糸業が発展し、やがて周辺の交通事情まで変化させていったというように、「蚕」の力は社会のあり方を次々変えていくこととなりました。

 

蚕さん、お蚕さま

開国後の日本において、諸々の事情から結果として都市と都市をつなぎ、かつ貿易立国としての土台を作りあげたという、国家存立の影の立役者となった蚕さん。

おじいちゃん、おばあちゃん世代の人の中には「お蚕さま」などと呼ぶ人もいたりしますが、もちろん当のお蚕様は、人間社会のそんな事情など知る由もないでしょう。

今も昔も変わらずに人間と共存している様子、現在も富岡製糸場(東置繭所)内で、呑気な食事中の姿を見ることができます。

とはいえ、「共存」などというと確かに聞こえはいいのですが、蚕は現在野生には存在出来ず、人間の飼育がなければ生きていけない状態になってしまっているようです。

生糸の原料となる繭を作るために生まれて来て、自力で生きるのではなく人間に育てられて生きていくよりほかないという、選択の余地のない生涯が蚕の一生です。

その蚕さんの恩に報いるべく、一級品を一級品たらしめるために整えられた工場こそが富岡製糸場だったんですね。

 

施設内walking

蚕さんたちのかつての住居だった、東置繭所を外から見た様子です。

左側は検査人館・女工館です。

女工館は、日本人の女工に製糸の技術を教えるために雇われた、フランス人女教師達のための住居として設置されました。

東置繭館、赤レンガ造りの建物の中がどうなっているのかというと、

残された部分だけから判断しても、立派なスペースだったのであろうことは伝わってきます。

東置繭所(右)の左隣は生糸工場です。

東西の置繭所のすぐそば、東置繭所よりのところにあるのが、役員用の社宅です。

置繭所や繰糸所(製糸工場)を挟んで反対側に位置する建物のうち、目を引くのは製糸場のお雇い外国人だったポール・ブリュナの住居=ブリュナ館です。

記念撮影用のプレートがすぐ前に出ていますが、かなり立派な建物です。個人の住居というより、見た目的にも大きさ的にも、体育館とかそんな感じを彷彿とさせます。

いかに当時の「助っ人外国人」が重宝されていたのかが端的にあらわされているとみることもできますが、当時の日本にとって殖産興業の隆盛は国家の死活問題に直結していたわけで、それも当然といえば当然のことだったのでしょう。

ブリュナ館の前には、世界遺産に登録されたことを示すプレート。柵の向こうには鏑(かぶら)川が流れています。

ブリュナ館のすぐとなりにあるのが、製糸場で働いていた女工さん達の寮=寄宿舎です。

老朽化した建物のぱっと見から在りし日を思う分には、新設された当時はそれなりに立派な寮だったのではないか、なんてイメージが浮かんできます。

創業時の富岡製糸場で女工さんをしていた和田英さんの『富岡日記』によると、富岡製糸場での工員生活は、規則正しくもそれなりに張り合いがあり、楽しいものだったようです。

とはいえ女工生活の実態については、往々にして『女工哀史』や『ああ野麦峠』で描かれている、”悲惨な女工”のイメージが先行することもあります。

この点、どちらが絶対的な正解なのだというよりは、参考とする資料によって違いが生じる節がある、要は各々の工場の操業実態には随分な違いが出てくる場合もあったのだというのが本当のところだったのでしょう。

例えていうなら、明治の北海道では一部でタコ部屋労働が行われていた=明治期のすべての土木作業がタコ部屋労働で賄われていた、ではないですからね。

ブリュナ館、女工館(フランス人女性指導教官宅)のすぐ傍には診療所があります。

付近一帯は、そのまま、在りし日の雰囲気を残しているようにも見えます。

右側の建物が診療所、左がブリュナ館です。

富岡製糸場のすぐ横を流れるのは、鏑(かぶら)川。

綺麗な水を利用できることも製糸場設置の条件に挙げられるものですが、この条件も今となっては「観光地」富岡製糸場の魅力の一部ですね。

富岡製糸場全体は、単なる一製糸工場であるというだけではなくて、河沿いにある「工場を持った」小さな村のように見えました。

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