会津若松と鶴ヶ城
鶴ヶ城入口

会津若松駅前からまちなか周遊バス(会津バス公式サイト “会津とあそぼう!!まちなか周遊バス“)を利用して、鶴ヶ城(公式サイト、公式X)前まで。
正式名称は鶴ヶ城ですが、若松城、会津若松城とも呼ばれているようです。

まちなか周遊バスの”鶴ヶ城北口”バス停傍に”入口”の碑が建てられていて、その奥に内堀、内堀の向こうに鶴ヶ城の天守閣が望めます。
いよいよ会津のお城が近づいて来た、という一画ですね。
北出丸大通り

バス通りに直交する形でお城からまっすぐ伸びた通りは、北出丸大通りと命名されています。
鶴ヶ城の「北の出丸」から伸びた大通りだということが由来ですが、「出丸」とはお城本体から突き出し、堀や土塁などで固められた防御・攻撃施設地のことで、曲輪とも呼ばれます。
特に江戸時代以降、この出丸・曲輪が「丸」(本丸、一の丸、二の丸等々)と呼ばれるようになって行くのですが、例えば現在皇居の外苑にあって日本武道館などを含んでいる北の丸公園は、元々江戸城の北の「丸」だったことが命名の由来です(参考:環境省 “北の丸公園“)。

北出丸大通り沿いには、旧会津藩家老の西郷頼母邸宅跡、同じく会津藩家老の内藤家邸宅跡がある他、戊辰戦争を前にして再編された会津藩の軍制で新設され、16~17歳の武家の子弟で構成されていたという、「白虎隊」隊士の生家跡も点在していて、

「会津戊辰戦争終結の地」碑もおかれています。
内堀を超えて、鶴ヶ城へ

鶴ヶ城の周りには、内堀・外堀と二重の堀がめぐらされているのですが、現在、お城のすぐ周辺にあってめぐらされている堀は、全て旧・内堀です。

堀のすぐ向こうには鶴ヶ城が見えて、

お城の説明書きが用意されている他、

道中にはお茶屋さんも用意されています。
鶴ヶ城(会津若松城)

さらに進むと、若松城跡の石碑があります。
1934年(昭和9年)、鶴ヶ城ではなく”若松城”として史跡に指定されたようです。
この付近一帯が、鶴ヶ城のいわゆる”北出丸”ですが、鶴ヶ城の”出丸”や”丸”には、このほか西出丸や本丸等があります。

堀の手前には武徳殿(公式サイト)という道場もあります。
1934(昭和9)年、日本の古武道の管理団体である大日本武徳会の全国道場組織の一つとして建てられました。
公式サイト他の写真を見るとかなり立派な道場で、もちろん、今でも現役で利用されています(参考:福島民報 “1934(昭和9)年7月14日 会津武徳殿落成“、大日本武徳会公式サイト)。

堀を渡ると、いよいよ鶴ヶ城がすぐ目の前まで迫って来ます。

二代将軍徳川秀忠の実子である保科正之以来、藩主は代々徳川将軍家と血縁関係にあったという藩としての立場上、幕末期には日本一翻弄されたといっても過言ではなかった名門藩が、松平容保時代の会津藩です。
旧会津藩の居城だった鶴ヶ城は、幕末期一か月に及ぶ籠城戦となった会津戊辰戦争(1868=明治元年)が終戦の時を迎えた後、戦禍を残したまま廃墟となるのですが、そのイメージは大分県竹田市にある岡城、宮城県仙台市にある仙台城(通称・青葉城)などと共に、「荒城の月」(参考:ゆめあるチャンネル “荒城の月“)のモデルとなって後世に伝え残されています。
明治新政府の下で進められた一方的かつ急進的な”近代化”の代償として、時の日本が何を失うことになったのか。
文明開化華やかなりし時代はまた、新政府への反発が激化の一途を辿っていた時代でもありますが、明治7(1874)年、鶴ヶ城は激動の時代の中で解体の時を迎えました。

現在の鶴ヶ城は在りし日の鶴ヶ城をモデルとして、高度成長真っ只中の時期にあった1965年(昭和40年)に再建されたお城ですが、春は桜、秋は紅葉が眩しい環境下にあるようで、四季折々の風情を感じられることも大きな魅力の一つとなっています。

武徳殿横からまっすぐ進むと、左手に位置するのが鶴ヶ城の天守閣、

その正面に位置するのが鶴ヶ城の表門=鉄門で、

この門をくぐって、鶴ヶ城の旧本丸エリアへと進みます。
戊辰戦争時、この門の上で藩主・松平容保が自ら指揮を執ったようですが、鉄門の向こうには現在、茶室や多くの史跡が残されています。

