七日町駅傍の「会津東軍墓地」
阿弥陀寺と幕末

阿弥陀寺は、JR只見線・七日町駅の、ほぼ目と鼻の先に位置するお寺です。

開山・開基は17世紀初頭(=1603年)ですが、江戸時代全期間を通じて栄えていたという類のお寺ではなかったようです。
戊辰戦争時には戦禍によって本堂が焼失しているのですが、会津の歴史には「会津戊辰戦争の戦没者・殉難者を祀るお寺」としてその名を刻んでいます。
きっかけは、戦後の死者の扱いにありました。
新政府軍の指令によって放置されていた遺体は、やがて「当時は会津藩の馬や犯罪者等が埋葬される先であった土地へ」改葬するよう、やはり新政府軍より指示が出されます。
旧会津藩側からすればさすがにこれは許しがたいということで、新政府との間で幾多の交渉が持たれた結果、改葬先として選ばれたのが、当時戦禍の中で荒れ果てていた阿弥陀寺でした。
旧会津藩に対する凄まじい恨みの感情から聞く耳を持てなくなっていたのが新政府なら、戦時と戦後を分けて考え、およそ人としての政策を共有できたのも新政府だったということで、一口に新政府といったところで決して一枚岩ではなかったのであろうことも感じさせます。
ところで、幕末の京においては、京都守護職を勤めた会津藩主・松平容保と会津藩、さらにはその配下組織である京都見廻組・新選組といった幕府側勢力が、「尊王攘夷」と銘打たれた(のちの討幕運動に連なる)テロ活動を徹底的に封殺していた、という史実があります。
つまり、元々新政府内部には激烈な怨みつらみに連なる「動機」を持つものとそうでないものが同居していたのであり、呉越同舟とはいかないまでも、すでに同床異夢的な空気も存在していたのでしょう。
このほか、この時期の阿弥陀寺にまつわる話としては、1868年に明治新政府によって出された「神仏分離令」を根拠法として、悪名高い廃仏毀釈運動が展開された時、飯盛山の旧正宗寺(現・さざえ堂 –公式サイト-)に置かれていた大仏が破壊されかけたため、難を逃れるために阿弥陀寺に運び込まれたというエピソードもあるようです。
ちなみに廃仏毀釈運動とは、時の新政府が神道国教化を画策するにあたり、それ以前までに積み重ねられてきた神仏習合(神も仏も等しく祀る習慣)の歴史を全否定する形で先導した、仏教排斥・破壊活動のことですね。

入口正面奥に作られた「墳墓」内には、「会津藩相萱野長修遙拝碑」や「戦死墓」といった会津戊辰戦争の殉難者・戦没者を祀る碑、西南戦争で戦死した旧会津藩士を祀る碑である「報国尽忠碑」が建てられている他、戦没者を祀る碑や幕末以降の旧会津藩の苦難の歩み、さらにはかつて鶴ヶ城に置かれていた施設(御三階)も境内に残されています。
参考:会津若松七日町通り “阿弥陀寺“、開山と開基について、参考:鎌倉五山と五山・十刹、山号の歴史
戊辰戦争と戦後処理
前記したように、旧会津軍の戦死者の遺体は、「賊軍」の戦死者だからという理由から、戦後の市中で放置されたのちに改葬を繰り返すこととなりました。
同様の話は、戊辰戦争最後の戦いとなった五稜郭の戦い後の函館(箱館)にも残されています。
最終的に、会津においては前記したような最低限の人道的な改葬がなされ、戦後の函館では「旧幕府軍の遺体を葬るな」という「新政府」の命令に背く形で、お寺の住職、侠客、大工の棟梁といった市民たちによって旧幕府軍の戦没者の埋葬が進められます。
一説によると、この時期の官軍・賊軍解釈の根拠となっているのは、政治工作の果てで偽造された勅書であり錦旗だったという見方もあるようです。そもそも「倒幕の密勅」(徳川慶喜を追討せよ、という天皇陛下の命令)自体が偽のもの(偽勅)であるなら、勅書も錦旗もまた偽物である、という理屈ですね。
「勝てば官軍負ければ賊軍」とは、意訳すればそこに正理公道は存在しない、力こそ正義なのだという理屈であり、見方捉え方如何ではのちの大日本帝国の命運を暗示するものともなってしまうのですが、ともあれ。
いずれにしても「暴走する正義」の狂気が人の道を外れていく様は、当時の世にあっても看過し得ないものだったのであろうことを、戊辰戦争の戦後処理のあり方が今日に伝え残しています。

