【群馬/新潟青春18きっぷ旅:二日目その5】新潟県・山形県の県境、鼠ヶ関にて

北関東/甲信越/中部
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鼠ヶ関駅発、夕刻の史跡巡り

羽越本線・鼠ヶ関駅着

新潟駅南口での昼食後に新潟駅を出発し、まずは白新線・羽越本線で村上駅まで。

村上では少々の街歩きを楽しんだ後、引き続き羽越本線で日本海の海岸線へ。

やがて、この日の最終目的地である新潟・山形の県境=鼠ヶ関(山形県鶴岡市)に到着しました。

駅舎と駅前

羽越本線の無人駅・鼠ヶ関駅(JR東日本公式サイト)に到着したのは、ギリギリ日没前でした。

無人駅ではお馴染み、切符入れが用意されている他、

駅からの観光ガイドや、簡単なコースマップ(鼠ヶ関地域協議会公式サイト “歴史スポット“、”観光スポット“、つるおか観光ナビ “鼠ヶ関“)、

駅自体の紹介や近隣の見どころ案内の他、

いかにもローカル線という感じのまばらな到着時刻が記された時刻表に加えて、ワンマンカーの利用についての案内も置かれているなど、必要最小限の情報が丁寧にガイドされています。

到着時間がもう少し早ければ、もう少しゆっくりできたであろうことが改めて伝わりますね。

駅付近

駅舎を出てすぐのところから線路沿いに通された道は、

ほぼ線路に並行しているので、

そのまま線路沿いに歩くことになって、振り返れば駅舎もそのまま視界に入ります。

鼠ヶ関と日本の古代史、「関」の変遷

古代”鼠ヶ関”址

駅舎傍から続く線路沿いの道を道なりに歩いたとき、右側に出て来る史跡は、

“古代鼠ヶ関址”および“関戸生産遺跡”の碑です。

古代の軍事施設としての”関”と、生活拠点・生産施設としての集落(関戸集落)が古代よりこの地にあったことを記す石碑ですが、史跡は一か所にとどまらず、周辺一帯に点在している旨が記されています。

古代より陸奥むつの国=”みちのおく”の国の入口として知られた白川関、白川関の東側(太平洋岸)に位置していたと推定される勿来なこそと共に防柵的な意味合いを持って設けられたのが、後に勿来なこそ関・白河関と並ぶ奥羽三大関の一つと称えられることになった鼠ヶ関のはじまりです。

ちなみに、江戸時代以降に使用された関所である”近世念珠関ねじゅぜき跡”(あつみ観光協会近世念珠関址“)は、”古代址”からは少し離れたところに残されています。

高札風に設置された説明板には、このほか”義経記ぎけいき“(参考:国立公文書館義経記“)、さらには”義経、弁慶一行”や”関所通過”について触れられた一節も用意されているのですが、この点については別史跡(源義経上陸の地碑)の項にて後述します。

奥羽三大関と三関、蝦夷とヤマト政権

白川関は福島・栃木の県境付近に、勿来関は福島・茨城の県境付近にそれぞれ位置していますが、”勿来”には、蝦夷えみしはこれより先に南下するな=る事なかれという含みが込められているという説もあるようです。

ここでいう蝦夷とは、当時の東北以北に居住し、中央政府の支配に屈しなかった人々の総称です。

教科書史観でミスリードされがちなイメージに「彼らは異端だ」と言うものがありますが、彼ら蝦夷はむしろ縄文文化の正統な後継者に該当します。縄文・弥生の構図で捉えるなら、蝦夷は縄文の気風を色濃く残す人々であり、その系譜は異端どころか現代日本人の形成に不可欠な、主要ルーツの一つにあたるんですね。

対するヤマト政権は、約7300年前の鬼界カルデラ大噴火によって西日本全域の人口が激減した後、大陸からの渡来人などがその「空白地帯」を埋めるように時間をかけて定着し、再興の果てで成立した社会を支配していたと考えられる人々の集団でした。

ところで、記紀(古事記・日本書紀)の世界の有力な解釈の一つに、神話の世界の神が東国(東日本)よりこの空白地帯(西日本、この場合は特に宮崎県・日向神話の地)に降り立った時に始まったのが「天孫降臨」の物語だ、という説があります。

その場合、「大噴火」によって空白地帯と化した西日本エリアに(航海術に長けた、海洋民的な)縄文系の「神」が降臨し、西国の平定を進めていく、やがてその平定が出雲の神々などの統治と一体化することによって、神話の世界の建国が完遂されていく、と(当時の西日本全域の発展のおよその流れが)解されます。

この視点で古代史を紐解くと、ヤマト政権の実体とは、大陸からの最新技術と組織力を持つ渡来系の勢力を、神話時代から列島を支えてきた縄文系の神々の系譜(霊性)がリードする形で日本を治めんとした、ハイブリッドな統治体制であったことが見えてきます。

蝦夷もヤマトも、共に現代日本人の形成に不可欠な主要ルーツですが、当時の「関」はまさに、新興の統一国家システムと、古来の独立した伝統を保持する勢力との、文化・勢力圏の最前線に該当していたんですね。

関の移転と、役割の変遷

「関東」地方という呼称の語源は、古代の政治の中心地である畿内を防備していた三関さんげん――伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、越前国愛発あらち関=福井県敦賀市――の東側を意味しています。

伊勢国は現在の三重県など、美濃国は現在の岐阜県、越前国は現在の福井県に概ね該当するということで、後の律令制(後述)に繋がる中央集権的な国家体制が整い始めた7世紀ごろ(聖徳太子や天智天皇などの時代)、関東とは今の感覚でいう東日本全体を指す広大なニュアンスで始まりました。

今日よく知られている江戸時代の関所は、徳川幕府が江戸を守るために要所に設置した軍事・治安施設としての性格が強いものです。しかし、古代ゆかりの関所はそれとは趣が異なり、都(奈良・京都など)と、その支配が及ばない「東国以北」との境界を創出するという役割を担っていました。

そこには、時の大和朝廷にとっての支配の北限線であると同時に、東国の伝統を保持する蝦夷側が、自らの文化を守るために引いた一種の『結界』のようなラインが存在していたんですね。

律令制とは(補足)

律令制とはざっくり言うと、律=刑法、令=行政法、格=修正事項、式=執行規則、それぞれの明文規定に沿って国を動かしていく古代の政治制度のことです。

最終的には701年に発された大宝律令で、初めて”律令制度”が法典として整備されたこの制度は、古代中国・唐の制度を模すことによって始まりました。

日本の古代史では、氏姓制度を柱とした有力豪族の連合政権である大和朝廷による統治を経て、聖徳太子の政治、乙巳の変後の改新の詔など、やがて皇族を中心とした中央集権体制の確立が進みますが、その際、あとから”律令”が明文化される形で国家体制が整えられていきます。

新潟県・山形県の県境と、漁港・鼠ヶ関

県境標

鼠ヶ関傍に位置する鼠ヶ関址から道なりにさらに進んでいくと、ほぼ目と鼻の先に位置しているのが新潟・山形の県境です。

山形県側から見ると、境目にあたる位置には”村上市”表記が用意されています。

昭和33年に設置されたという、県境を記す標柱と、

反対側の道沿いには、記念のスタンプ他、

関連するグッズなども置かれたスペースが作られていて、

新潟県側から見た県境には、”鶴岡市”表記が用意されています。

漁港・鼠ヶ関

鼠ヶ関駅自体も海の傍の駅であり、二つ先のあつみ温泉駅に至っては駅前から海を望むことも出来ますが、一帯は海産物が豊富に取れる海でもあります。

ということで、場所によっては遊漁者(一般の釣り人など)の釣りetcはNGとなっています(釣り場は、この付近から徒歩圏内にある漁港周辺に設けられています)。

鼠ヶ関エリアのイベントには海産物を絡めたものも少なくありませんが(鼠ヶ関地域協議会公式サイト “イベント情報“)、ちょっと真下をのぞき込んでみると、透明度も高い綺麗な海であることがわかります。

堤防や防波堤が作られた先には、村上方向に延々日本海の海岸線が続いていますが、

西の空を見ると、日はほぼ沈みかけています。

気持ち早足になりつつ、鼠ヶ関港(漁港)方面に向かって、さらに先へ。

源義経上陸の地碑

鼠ヶ関港傍・義経上陸の地

鼠ヶ関の海岸線には、やや意外(?)な碑石も置かれています。

今回の18きっぷ旅では目当ての一つだった史跡で、その名も“源義経上陸の地”碑です。

鼠ヶ関と安宅関 -源義経の北陸行脚-

今に残る古典名作の『平家物語』、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』、さらには歌舞伎の『勧進帳』等々が描く義経ゆかりの関所としては、武蔵坊弁慶による勧進帳読み上げ(弁慶による山伏の名演)や、関守・富樫左衛門が見せた”武士の情け”(義経・弁慶一行の関所通過容認)でおなじみ、安宅関あたかのせき安宅住吉神社公式サイト勧進帳 安宅の関“)が有名です。

『平家物語』のストーリーで追うのであれば、物語の最終盤ですね。

平清盛全盛期の描写から始まり、やがて盛り返す源氏一族、最終的には壇之浦での義経の活躍によって平家が滅亡し、いよいよ義経の異母兄・頼朝の天下統一が近づいて来る下りにて。

頼朝の許可なく朝廷より官位を受けたことなどを理由として、一転して”官軍”に追われる立場となった義経が、奥州藤原氏の庇護を求めて京から北へと落ち延びて行く行程でのお話です。

奥州・平泉目指して日本海沿いを進んでいく一行が、とある関所で足止めを喰らうーー。

歌舞伎の名場面として描かれるのは安宅関での「検問」ですが、史実によると、それは一行が安宅を超えて能登半島から海路をとり、佐渡島を経由して山形・新潟県境の“鼠ヶ関(ねずがせき)”に上陸した際の出来事だったようです。

縄文の気風を残す『蝦夷』の有力者の末裔、奥州藤原氏が根を張る聖域へ。

その入り口である鼠ヶ関が、古来より白河関・勿来関と並び、中央政権の支配域と東国(蝦夷)を分かつ『奥羽三関』の一つであったことは、史実としても、また義経の心中を慮っても、実に示唆に富むものがあります。

結局、頼朝に討たれてしまう義経と奥州藤原氏の末路を思えば、それらすべては『沙羅双樹の花の色』という諸行無常の響きに収束するのかもしれません。

しかし、よりにもよってこの『境界線』で足止めされたという事実は、より生々しい絶望感と、だからこそそこで見せられたとされる『武士の情け』の重みを際立たせます。

歌舞伎由来の諸説の派生という意味では、旧赤穂藩藩士の敵討ちを描いた”忠臣蔵“と同種のものを感じなくもありませんが、歌舞伎由来の物語として親しまれる安宅関と、史実としての境界を刻む鼠ヶ関の相違は、日本人が歴史に求めたエンターテインメントとしての華やかさと、地政学的な境界が持つ厳然たるリアリティの対比そのものであるようです。

参考:米沢日報デジタル寄稿「源義経の奥州逃避行を探る」斎藤秀夫“他

鼠ヶ関の夕暮れ

鼠ヶ関にて最低限見たかったスポットは無事見れたということで、残りの目玉スポットであった、海岸沿いの道からでも視界に入る灯台・鼠ヶ関灯台第二管区海上保安本部公式サイト鼠ケ関灯台“)を目指して進みました。

太陽は一旦沈み始めると案外早い上、ただただ暑かった日中に比べて、日が傾いた分風の強さも気になり始めます。元々この日は午前中からほぼ一日中歩き回っていた、その分の疲れもたまって来ていましたということで、

“マリンパーク鼠ヶ関”つるおか観光ナビマリンパークねずがせき“)という海水浴場に到着したその瞬間が、自分の中での“街歩きスイッチ”が切れた瞬間となりました。

早速、幾つかあった東屋の下にて、村上駅にて用意した軽い夕食を取ることにしました。

その後は、往路とは別の道から鼠ヶ関駅へ。

奥に見えるのは鼠ヶ関漁港(山形県公式サイト “鼠ヶ関港の概要“)です。

海岸沿いの通りから折れた道中には、駐在所(鼠ヶ関駐在所)もありました。

ちなみに交番と駐在所の間には、24時間開いているか否か(交番は24時間、駐在所は日中のみ)、勤務しているお巡りさんが単独(駐在所)か複数(交番)か、等々といった違いがあるようです(参考:警視庁公式サイト “交番と駐在所はどこが違うのですか。“、奈良県警公式サイト “交番と駐在所との違い“他)。

駐在所はどうやら閉まっていたようでしたということで、山形・鼠ヶ関にも夜の時間が到来します。

駐在所の先で、進行方向左手には奥羽本線の線路、鼠ヶ関駅のホームが見えてきて、

ほぼ日没時刻に、鼠ヶ関駅前に到着しました。

鼠ヶ関駅からは再び羽越本線、さらには白新線に乗車し、新潟駅へ戻る行程です。

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