戊辰戦争の終焉
土方歳三最期の地/五稜郭
新撰組副長・土方歳三の最期
歳三はもはや白兵突撃以外に手がないとみた。幸い、敵の左翼からの射撃が不活潑なのをみて、兵をふりかえった。
「おれは函館へゆく。おそらく再び五稜郭には帰るまい。世に生き倦きた者だけはついて来い」
というと、その声にひきよせられるようにして、松平隊、星隊、中島隊からも兵が駆けつけてきてたちまち二百人になり、そのまま隊伍も組まずに敵の左翼へ吶喊を開始した。
司馬遼太郎『燃えよ剣(下)』(新潮文庫、昭和47年6月15日)より引用
戊辰戦争(後述)最後の戦いとなった箱館戦争が終結する約一週間前。
箱館政権の陸軍奉行並を勤めていた元新選組副長・土方歳三は、新政府軍の総攻撃を迎え撃ち、幕府軍側が築いた一本木関門傍にて壮烈な戦死を遂げました。
“最期の地”と雪の季節の五稜郭
現在残されている”一本木関門跡”は、実際に土方歳三が戦死を遂げた関門跡とは若干異なる位置にあるようですが、”最期の地”碑は現在も”幕末史”ファン、新撰組ファンの聖地となっていて、四季を通じて訪問者が絶えることが無いようです。
毎年土方歳三の命日である5月11日や五稜郭祭(5月中旬の土日。公式サイト)が近づくと”最期の地”付近にて満開になる桜、中でも石碑傍の桜は“歳三桜”と呼ばれ、親しまれているという話しを現地で伺った記憶があります。
なんとも風流な解釈ですよね。
写真はその”土方歳三の最期の地”(函館市公式観光情報 “土方歳三最期の地碑“)付近に置かれていた、雪の季節の土方歳三像です。現在、この像は五稜郭タワー内に置かれているようです(参考:函館公式観光情報 “土方歳三最期の地碑“、五稜郭タワー “土方歳三のブロンズ像“)。
JR函館駅からもほど近い”最期の地”からは若干距離がありますが、
五稜郭タワー(公式サイト)から望んだ五稜郭(北海道観光公式サイト “五稜郭公園“)の雪景色です。
戊辰戦争
俗にいう”明治維新”の成立期。
鳥羽・伏見の戦い(慶応四年=1868年1月)に始まり、五稜郭が新政府軍の最後の攻撃目標とされた箱館戦争=五稜郭の戦い(明治二年=1869年5月)で幕を閉じた戦いは、戦争勃発年である1868年(慶応四年=明治元年)の干支(戊辰=つちのえたつ)を取って、戊辰(ぼしん)戦争と総称されます。
鳥羽・伏見の戦いでいう”鳥羽”・”伏見”、つまりこの戦いの主戦場は、鳥羽=現在の京都市南区の鳥羽街道周辺、伏見=同伏見区の伏見奉行所周辺を指します。
ざっくりいえば、当時の京都の南玄関で始まったということですね。
以降、旧幕府軍(幕府陸軍・幕府海軍の他新選組、彰義隊、仙台藩、越後長岡藩、会津藩等)と新政府軍(薩摩藩、長州藩、土佐藩等)が、京都から東進する形で戦場を転々とし、約一年半の間武力衝突を繰り返しました。
戊辰戦争の経過
戦争全体を俯瞰したとき、幕府軍が唯一勝てた可能性のある戦いがまさに緒戦の鳥羽・伏見の戦いだった、そして幕府軍が仮にこの戦いに勝利していれば、その後の歴史は大きく変わっていただろう、ともいわれています。
ですが将である徳川慶喜の一方的恭順などもあって幕府軍が敗退すると、その後の戦いでは東へ軍を進める新政府軍が常に優勢となり、戊辰戦争開戦から約3か月の後、1868年4月には江戸城が無血開城されました。
とはいえ、この時点では新政府の方針、つまりは明治新政府の強引かつ傲慢なやり口に異を唱える北陸・東北の諸藩が新政府にとっての抵抗勢力として残っていたため、なお戦争は継続します。
その後、彰義隊が壊滅した上野戦争(1868年5月)、中立を保っていた河井継之助旗下の越後長岡藩が旧幕府軍側に立って参戦・敗退した北越戦争(同年5月-7月)、さらには戊辰戦争の天王山であった会津戦争での会津藩の敗退(同年9月)によって、開戦後約半年強で本州全土が新政府軍に制圧されました。
新政府軍の戦果がこれだけ圧倒的だった理由は、一重に欧米の武器商人から購入した新式の兵器を潤沢に所持し、かつ使用出来たことによっていますが、このことによって最終的に双方の戦力差は圧倒的なものとなり、時間の経過によっていよいよ旧幕府軍の勝ち目はなくなっていきます。
補足として、彰義隊は、当初は恭順中の徳川慶喜警護を目的としていたものの、やがて新政府軍への抗戦姿勢を強めていったという、旧幕臣によって編成された部隊です。
越後長岡藩の参戦は奥羽越列藩同盟加盟によるもので、幕末に京都守護職を務めた幕藩体制下の名門・会津藩は、親幕府勢力の盟主として君臨していました。
参考:会津若松・鶴ヶ城、戊辰戦争の跡、【街歩きと横浜史】近代横浜の始まり -開港場と周辺エリア-
箱館戦争終結と、その後の明治新政府
みな、疲れてやがる、歳三は思った。思えば幕末、旗本八万騎がなお偸安怠惰の生活を送っているとき、崩れゆく幕府という大屋台の「威信」をここにいるこれだけの人数の新撰組隊士の手でささえてきた。それが歴史にどれほどの役に立ったかは、いまとなっては歳三にもよくわからない。しかしかれらは疲れた。亡魂となっても、疲れは残るものらしい。
歳三はそんなことをぼんやり考えていた。
「歳、明日、函館の町が陥ちるよ」
近藤ははじめて口をひらき、そんな、予言とも、忠告ともつかぬ口ぶりでいった。
歳三はこの予言に驚倒すべきであったが、もう事態に驚くほどのみずみずしさがなくなっている。疲れて、心がからからに枯れはててしまっているようだ。
司馬遼太郎『燃えよ剣(下)』(新潮文庫、昭和47年6月15日)より引用
1868年12月、旧幕府軍の残存勢力は、榎本武揚(箱館政権総裁、軍艦操練所教授、幕府海軍の指揮官)を総裁とする箱館政権(蝦夷共和国)を樹立し新政府軍に対峙しますが、翌1869年4月より新政府軍の総攻撃が始まると、5月には箱館政権が陥落、箱館戦争・戊辰戦争は終結しました。
土方歳三は箱館戦争において戦死し、旧幕府軍も壊滅しますが、新政府の政権運営上の波乱は戊辰戦争後も断続的に発生します。
相次ぐ士族の反乱の後、戊辰戦争終結から約10年後には、新政府樹立の立役者であり、かつての”官軍”の最高指導者だったはずの西郷隆盛を相手取った西南戦争(1877年=明治10年)を戦うこととなった、西南戦争終結後はそのまま自由民権運動激化への対処を迫られることとなったというように、“藩閥政府”の前には引き続き難題が山積する状態が続きました。
やがては、ゆくゆくはという話をするのであれば、「力こそ正義」の理屈で軍政を優遇し続けた明治政府はこの先、国家消滅の一歩手前まで続く暴走を自力で止められなくなってしまう未来に直面することになり、挙句終焉の時を迎えることになるのですが、幕末期にあってはそれはまだまだ先の話ですね。
歴史の「たら・れば」論で過去を変えることはできませんが、後世の人間としては、討幕勢力によって偽造されたという”偽の錦旗“に畏怖し恭順を選択した徳川慶喜の判断が、なんとも悔やまれるところです。