【開港都市・神戸の風景/旧居留地の風景】花時計線・西国街道沿いを街歩き

国内旅
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旧居留地内の北端エリア

花時計線と西国街道

神戸旧居留地(※)は、上地図赤線で囲まれたエリアの内側です。

中央の二車線の道が京町筋その一本左隣が”浪花町筋”ですが、

その浪花町筋傍の交差点で居留地北端の道に合流しているという、上地図の青い線が西国街道です(赤い線は、旧居留地エリアの境界線です)。

旧・西国街道は、京都に始まり中国地方を横断するという、江戸時代の旧幹線道路です。

いわゆる五畿七道のうちの”山陽道”に被ってくる道で、京都から大阪・神戸を経由し、本州西端の下関へ、最終的には太宰府まで伸びているようです。

港町・神戸においては、JR三ノ宮駅や阪急電鉄・神戸三宮駅の北側から、生田神社前の”いくたロード”(生田筋)に合流し、浪花町筋傍の交差点で”花時計線”に合流した後、地下に通された神戸市営地下鉄海岸線(旧居留地大丸前駅傍)の線路をまたいで、元町商店街へと進みます(上地図青線部分)。

ということで、別記事で取り上げますが、元町商店街の西端には“西国街道”上に設けられていた関門跡が遺されています。

参考

旧神戸居留地・北端エリア

浪花町筋交差点付近

浪花町筋と花時計線の交差点付近の様子です。

居留地の北端にあたる一帯で、”新クレセントビル”(写真左)という中々雰囲気のあるビルが建っていますが、

三叉路っぽい交差点の△部分が花壇となっていて、花壇の隣にベンチが置かれている点についても、中々に個性的です。

ベンチ・花壇の向こう側には、生田神社の鳥居も見えていますが、

鳥居に向かう道が生田筋で、鳥居は生田神社の一の鳥居です。

浪花町筋との交差点と微妙に位置がずれていますが、この生田筋との交差点から西側が西国街道となります。

神戸朝日ビル前

神戸朝日ホールなどが入居しているという、神戸朝日ビル前へ。

ビルも”ホール”も90年代に作られたもののようですが、建物自体が醸す雰囲気は旧居留地であるという立地を彷彿とさせるもので、付近の雰囲気づくりに一役も二役も買っているであろうことが伝わって来ます。

朝日ホール前から浪花町筋方向を振り返ってみても、雰囲気がそのまま継続しているんですよね。

ご当地感満載のオシャレマンホールなども用意されている他、

すぐ隣の区画には、旧三菱銀行の柱頭ちゅうとうも残されています。

柱頭は、古代ギリシャ・ローマ等、西洋の古典建築で定番とされる装飾の一つですね。

昭和4(1929)年、つまり“居留地後”に作られた建物に付された装飾ではありますが、現在残されている柱頭が雄弁に物語るのは、その時代にしてなお居留地時代の雰囲気を踏襲したことが伝わって来る建物だったらしい、ということでしょうか。

今となってはともかく、かつての日本に訪れた、いわゆる“文明開化”の衝撃のほどがどの程度のものだったのか

現在に残された”かつて”は、その一端を垣間見せてくれているように伝わりますね。

そして、19世紀に突貫で作られたという居留地のすぐとなりには、8世紀以来の由緒を持つという、生田神社の鳥居(生田筋=いくたロード沿いに作られた、生田神社の一の鳥居)が据えられています。

“西欧文明流入口”のすぐ隣では、ほぼ有史以来ともいえる日本の歴史との関連性が息づいていたりもするのですが、この和洋折衷感も”神戸ならでは”

余談として、

「大同元年(西暦806年)朝廷より当社の為にお供えする家、世話をする家、守る家である神戸かんべ44戸を頂いたとあり、この「かんべ」が「こんべ」となり現在の「こうべ」となったと伝わっています。」(生田神社公式サイトより引用 ※)

とあるように、生田神社はその由緒に”神戸”の地名の由来を持つ神社でもあるようです。

参考

大丸神戸店前

西国街道をさらに西へ進むと、次の区画には大丸の神戸店があります。

江戸時代に京都で開業した呉服店にルーツを持つという、名門百貨店の神戸店ですね。

大丸のすぐ向かいには、“関西版・生麦事件”ともいえる神戸事件の現場となったことで有名な三宮神社も残されていますが、改めて、この一帯が旧居留地との境界付近に位置していることを思わされます。

大丸横には、海方向に向かう”メリケン波止場山本線”というメリケンロードの一本東側の道が、西国街道に直交する形で通されています。朝一で神戸三宮駅前に降り立った時の気分がまたしてもここで蘇ってきたというようなポイントだったのですが、自分の頭の中にあったイメージそのままの神戸、という一帯の一つでもありました。

この並木道から、ガス灯風の街灯が建てられた歩道が、

そのまま西国街道の進路となる、元町商店街方向へと続いています。

歴史の”たられば”なんて所詮は夢物語でしかないのですが、三宮の旧居留地を歩いていて思わされたことって、「もし、横浜が関東大震災の被災を回避できた上で、横浜大空襲やGHQの大規模な接収から逃れることが出来ていたら」、今の横浜ってこんな街になっていたんじゃないかな、なんてことでした。

“神戸と横浜、似てるか否か”は結構人によって色々な答えが出てくるところのようではありますが、個人的には「見るところを見たら滅茶苦茶似ているな」とは感じました。

参考

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