江戸城跡と日本初の”近代的洋式公園”
江戸城跡と心字池
心字池は、東京駅傍、皇居の隣に位置する日比谷公園(東京都公園協会公式サイト “日比谷公園“)内にて、その一角を占めています。
明治36(1903)年の日比谷公園開園時、旧江戸城の堀の一部が“心字池”として残されることになりました。
“心字池”と言う池の名は、池の形が草書体(早く書くことを想定して作られた、崩れた形の漢字)の”心”の字のようだということに由来しますが、この名を持つ池自体は各地の日本庭園に存在します。
日比谷公園の心字池も、そのうちの一つに該当すると言うことですね。
日比谷公園自体は“日本初の近代的洋風公園”として開園した、噴水や西洋風の花壇等々が個性となっている公園ではありますが、その内部には和風の空間も残されていることがわかります。
余談として、現在の心字池の位置にはかつて江戸城“日比谷見附”の石垣が積まれていました。
“見附”とは、城の最外殻に置かれる番兵の見張り所のことです。
現在も地名として残る四谷見附や赤坂見附をはじめ、合計で36の見附が置かれることによって江戸の治安が維持されていたのですが、日比谷見附も”江戸城36見附”の一つに該当します(参考:千代田区の文化財 “四谷見附“)。
“日本初”と明治の世
“日本初の公園”について広く国内に目を向けると、明治元(1868)年に神戸の東遊園地(公式サイト)が“日本初の洋式公園”として開園したほか、その2年後にあたる明治3(1870)年には、横浜の山手地区(旧外国人居留地内)にて、“日本初の洋式公共庭園”である山手公園が、当時の外国人居留民の出費によって開園しました。
洋式公園(東遊園地)、洋式公共庭園(山手公園)、近代的洋風公園(日比谷公園)。
順に、いわゆる公園、みんなの共有スペース、新しい形の公園、といった感じでしょうか。
それぞれのどこにどのような相違があるのかといわれると、なんとなくわかるような気はしなくもありませんが、それ以上に”数々の日本初”から強く伝わってくるように感じるのは、この時期の日本国内の欧化政策の勢いと影響力です。
時の海外文明が明治・大正期の日本に与えた影響力のほど、当時の日本人が受けた刺激の質が、改めて察せられるような気がしますね。
なお日比谷公園自体は、老朽化などを理由として、2023年9月より再整備のための工事に入るようです(参考:NHK “東京 日比谷公園 9月から再整備へ 施設の老朽化など理由“)。
参考:東京都建設局 “日比谷公園グランドデザイン~5つの提言~“