【旧街道と宿場町】街道整備と江戸時代の旅(五畿七道、五街道、脇街道)

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五畿七道から五街道へ

五畿と七道(一覧)

現在の”街道”には、およそ江戸時代までに整備された旧街道以来の由緒を持つものと、その後新たに街道と命名されたもの、二つのパターンがありますが、江戸時代に整備された”五街道”を中心とする道は、概ね古代に整備された”五畿七道”以降の道をルーツとしています。

参考

  • 武部健一『道路の日本史』(中公新書、2015.5.25)

五畿

  • 大和国(奈良)
  • 山城国(京都)
  • 摂津国(大阪・兵庫)
  • 河内国(大阪)
  • 和泉国(大阪)

七道

古代の地方区分 現在の都道府県
東海道 茨城、千葉、埼玉、東京、神奈川、山梨、静岡、愛知、三重(熊野地方以外)
東山道 青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島、栃木、群馬、長野、岐阜、滋賀
北陸道 新潟、富山、石川、福井
山陽道 兵庫県南部と、岡山、広島、山口
山陰道 京都府北部と兵庫県北部、鳥取、島根
南海道 香川、徳島、愛媛、高知、三重県熊野地方、和歌山県、淡路島
西海道 福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎、熊本、鹿児島(九州7県)

五畿と七道

about

五畿ごき“および”七道しちどう“は、古代の地方区画(”七道”については、さらにはその区画に通された道)です。

地方としての”七道”は律令制の実施、および駅伝制の整備を通じて”五畿”に紐づけられていくのですが、その際には”五畿”と”七道”の間を結ぶ道(ex.地方としての東海道に通された、”東海道”という道)が、もっぱら中央集権体制を固めるために公用されます。

つまり五畿から”七道しちどう“へ通された、それぞれの(区画を同じ名を持つ)みちは、概ねその発祥以来、時の政権と命運を共にする形となって進みました。

ということで、律令制華やかなりし時代に栄えた七道は、鎌倉幕府の成立以降、それでも鎌倉(東海道の拠点)と京(畿内の拠点)を結ぶ道として機能し続けたという東海道(”地方”ではなく、”道”の方)のような例外を除くと、多くの(五畿と、それぞれの”どう“を結ぶ)みちは維持困難となって廃れていきます。

五畿

“畿”は、語義的には都を意味する語です。

現在の大阪を中心とする地にかつて広がっていたという、”5つの都”の意ですね。

命名の所以は、東日本/北日本が栄えていたと考えられている先史時代に対し、”歴史”時代の幕が西日本、中でも”畿内”が都となる形で開花したことによっていますが、既述のように、五畿とは大和国(奈良)、山城国(京都)、摂津国(大阪・兵庫)、河内国(大阪)、和泉国(大阪)の五か国を指します。

七道

道そのものというよりは、道を含む地方と言ったニュアンスに近いのが古代の七道ですが、当時の政治の中心地=五畿から各地方へ伸びた七道は、それぞれ東海道、東山道(中部・北関東・東北)、北陸道、山陰道、山陽道、南海道(四国)、西海道(九州)と命名されました。

古代の東海道は”うみつみち”、東山道は”やまのみち”と呼ばれていたようですが、東海道・南海道・西海道で用いられている”海道”は、「海沿いにある国々」を意味していたといわれています。

参考

“律令”体制後の道の変遷

七道の衰退と鎌倉/室町の道 -関所の設置・撤廃-

鎌倉/室町時代(武家政権の世の中)以降は、かつて律令制に紐づけられていた”七道”(みちの方ですね)の代わりとして、元々民間人が私生活で用いていた私道が発達しました。

ただし、かつての七道と入れ替わりで栄えることとなった室町時代までの道の多く(=民間人が用いた私道など)は、元々の地形や自然環境を克服できないままだったという面を持っていた上、続く戦国期には各々の大名の勢力範囲ごとに防衛線が張られる形で領土も街道も分割されたことによって、日本全国が完全につながっていたとは言い切れない状態のままで、事実上分断統治される状態へ向かいました。

また、特に室町期以降、”私道・街道で民間人の往来が急増するようになった”という動きに対しては、通行量に比例して伸びていく関銭収入が目的とされる形で、新たに多くの関所が作られます。

やがて関銭は荘園領主や守護大名、さらには室町幕府にとっての貴重な財源となっていくのですが、織田信長の経済政策では通行の利便性が重視された結果、関銭徴収目当てで激増した関所が撤廃される運びとなりました。

総じて、何かが大きく変わりそうな予感があるような、ないようなという、そんな状態でしょうか。

“七道”以降も時代とともに変化を遂げて来たという国内”みち“事情ですが、やがて三人の天下人たちによる天下統一事業の完遂によって、いよいよ現在の形へと大きく近づいていくことになります。

江戸時代の街道整備

国内に通された道の大きな転換点は、江戸幕府の開祖・徳川家康による五街道整備にあります。

“七道”時代から続く東海道や東山道(東山道が元となった中山道が作られます)の他、新たに甲州街道、日光街道、奥州街道が開通し、全て幕府が直轄する”五街道”とされたほか、五街道からは脇街道、あるいは脇往還などと呼ばれる多くの脇道(五街道以外の旧街道です)が派生します。

街道の整備と同時に江戸の防備を考える必要に迫られたことから、家康は信長が撤廃した関所を再興し警備の義務を与えるのですが、その結果道中奉行によって管理された街道(五街道や脇街道)上には、宿駅(宿場町)の他に改めて関所が置かれ、警備の拠点とされました。

ここに「入り鉄砲(江戸に入る武器)に出女(大名の妻=人質の逃亡防止)」に特に厳しかったと言われる、関所の厳格な取り締まりが始まることとなったのですが、続く近代以降の交通網も、江戸時代に整備された種々の街道(五街道や脇街道など)がベースとなる形で発展します。

一里塚と宿場町、問屋場

江戸時代の街道では、一里毎に一里塚が置かれ、2~3里毎に宿場(宿駅)が置かれました。

ちなみに一里は約3.9キロですが、これは”人がおよそ一時間の間に歩く距離”を基準としています。

宿場町の中には大名や公家、さらには幕府の役人等が宿泊するための本陣ほんじん、本陣を補う施設として利用された脇本陣わきほんじん、庶民が宿泊するための旅籠はたご木賃宿きちんやどの他、街道を公用(=参勤交代時の大名の利用とは異なる、幕府の仕事)に供するための措置として、宿場町ごとに”問屋場といやば“の設置が義務付けられていました。

この場合の問屋とは、現在一般的に言われる卸売業者さんや取次業者さん、運送業者さん等々のことではなく、宿場町において人馬継立じんばつぎたてを担っていた施設です。

人馬継立とは”宿場町と宿場町の間の、特に公用時の交通取次”のことで、前記した公用客(とその荷物)を、目的地に向かって宿から宿へと経由して送り届けるという業務です。

“継立”は”宿継しゅくつぎ“とも言われますが、五街道を筆頭として整備された街道上の宿駅では、まずはじめに幕府の公用ありきの”御用街道”として(主要な街道を)機能させるべく人馬の供給が義務付けられ、その見返りという形で宿場や運送業などの経営が容認されていました。

結果的には”問屋場”ありきで宿場町としての発展が約束された形ですが、問屋場が請け負った人馬継立業務は宿場町のみで賄うことが出来ないことも多く、しばしば街道周辺の村からの助力(=人馬の補助)も必要としたようです。

問屋場の業務(=人馬継立)を補佐する仕事は助郷役、補佐業務を担う近隣の村は助郷(助郷村)と呼ばれていました。

江戸時代に街道が整備され、宿場町が充実し、交通量が増えたことは、当時の文化発展に大きく寄与していくこととなったのですが、反面、交通網の発達や通行量の増加と共に問屋場や助郷役の負担が増し、やがて助郷の範囲も拡大していくことになるなど、そのことが農村を疲弊させ、一揆につながるケースも出てきました。

江戸時代の街道整備によって国内の移動が飛躍的に快適化した反面、それ以前には生じなかった問題が新たに生じるようにもなった、という形ですね。

参考

信州街道・草津道・草津街道

【小旅行ドライブto新潟/旧街道と国道】信州街道・草津道・草津街道“へ

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