【”たびキュンパス”で三内丸山へ】日本の成り立ちと海運事情の源流

東北/北海道
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国内・海外のつながりと”ことはじめ”

終わりとはじまり

氷期の終わり

後の日本列島にあたるエリアは、

  • 約3億年前:すべての大陸が繋がる形で形成されていた“超大陸パンゲア”誕生
  • 約7000万年前:”パンゲア”がおよそ今の大陸の形に分裂
  • 約2400万~1500万年前:後に日本海となる”大陸の裂け目”の誕生(ユーラシア大陸から分離)
  • 約1万5000〜1万年前:氷期が終わり、海面が上昇(縄文時代への移行期)

といった変化によって現在の地形となりますが、最古の人類は縄文時代より前、旧石器時代に確認されています。

縄文時代への移行期の樺太付近、および玄海灘付近の海域では“大陸と陸続きになった結果、現在の日本海エリアが海ではなく湖のような状態になる”という時期が繰り返し訪れてはいたものの、既に陸続きといえる地形ではありませんでした。

“海面低下が作り上げた、樺太付近や朝鮮半島との間の陸橋(陸続きの地形)”によって大陸との間で移動が可能となっていたという状態に過ぎなかったため、氷期が終わった時に「その時期(=旧石器時代)の日本列島エリアにいた人たち」がそのまま”島国”に取り残される形となったんですね。

日本の始まり

当時の日本列島エリアに居住していた”日本人の祖先”に当たる人たちは、

  • 北方からナウマンゾウを求めて南下した人たち
  • 南方から東南アジア・琉球列島経由で海路を進んだ人たち

のほか、

  • アフリカ大陸やユーラシア大陸西端エリアから、”陽の光”を求めて東進を続けた人たち

のうち、最終的にこの地にたどり着いた人たちだと考えられています。

その場合、もとよりガラパゴス状態だったというよりはむしろその逆、流浪の民の中でも選りすぐりのものたちが封じ込められた形ですね。

参考

縄文・弥生から”神話”の時代へ

現在、日本列島で確認されている最古の人骨は、約32000年前~14000年前のものです。

各々の理由によって各地から日本列島へと渡って来た“日本人の祖先”たちは、やがて定住生活を営むようになると、それぞれのコミュニティ間をつなぐネットワークを利用した交易を開始します。

生活単位も血縁を柱とした家族単位の塊から、複数以上の家族が共同で暮らす集落単位のものへと進化し、その生活痕が各地の遺跡に残されることとなりました。

このことが“各自の生活拠点の存在”を前提とする遠隔交易を可能としますが、遠隔交易では、陸地の他、河川や海路も流通経路に利用されたことが推定されています。

この縄文社会のベースの上に、大陸より伝来した稲作の普及鉄器・青銅器の使用、そして環濠(周囲に堀を巡らせた)集落の出現といった変化を経て、弥生社会が成立しました。

時系列的には、縄文社会は弥生文化を柱とした社会へ移行し、さらに弥生・古墳時代の文化はヤマト王権(ヤマト政権)の礎を形成したと捉えることができますが、その際、古事記日本書紀といった国内最古の文献記録の背景事情(行間部分)となって行ったと考えられるのが、いわゆる先史時代に蓄積されていた”日本社会の動態”にまつわる当時の人々の記憶です。

惜しむらくは、縄文時代・弥生時代の日本人の祖先たちは未だ文字を使用していませんでした。

そのため、全ては残された道具や生活痕、さらには口伝(言い伝えなど)からの推定に頼らざるを得ないのですが、ともあれ、縄文時代におよそ10000年かけて培われたベースの上に、大陸より伝来し、日本風にアレンジされたという”弥生文化”と、その後の”古墳文化”が生まれたことによって、時の日本社会には新たな成長の時が訪れることとなりました。

「島国でありながらも、外界からの刺激を効果的に受け入れることが出来たため、それぞれの時代の社会が身の丈に見合った進化を遂げていった」という成長形態は、文字が使用される以前の時代からのこの国の一つの在り方だったんですね。

参考

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