旧鶴ヶ城、かつての本丸内の史跡
御三階跡

鶴ヶ城(公式サイト)の旧本丸内、藩主の休憩室傍には、かつて本丸内唯一の高層建築だったという「御三階」がありました。
戊辰戦争後、会津若松市内の阿弥陀寺(JR只見線・七日町駅傍。参考:会津若松七日町通り “阿弥陀寺“)へ移築されましたが、将来的には元あった本丸内への移築も検討されているようです。
現在、かつて御三階があった地には、往時をしのばせる石垣が遺されています。
茶室麟閣
本丸内の茶室

旧本丸内には、往時をしのぶ目玉施設として、茶室麟閣(公式サイト)が遺されています。
千利休の養子・千小庵が、時の会津藩主・蒲生氏郷のために作ったと言われている茶室で(経緯後述)、その造築以降、鶴ヶ城内で代々大切に使用されてきたようです。

敷地内には、茶室に隣接した庭園内に造られた、亭主からの迎えを待つ場である腰掛待合や、

待合から茶室に向かう時にくぐる中門、

さらには茶会に招かれたお客さんが身支度を整えるための寄付なども残されています。

これらの施設の奥に控えているのが茶室・麟閣で、

現在内部に入ることは出来ませんが、周囲をぐるっと一回りすることが出来ます。

「身分関係その他も含め、俗世間との間を隔絶する役割を果たしている」という、茶室の入口「にじり口」の向こうには、

一期一会のお茶をたてるための空間が用意されていて、

茶室内の様子を両側から伺うことが出来ます。
茶室麟閣の歴史と千家、蒲生家
元々織田信長に茶人として仕えていた千利休は、信長の死後豊臣秀吉を主君と仰ぐことになるのですが、やがてその行動の某かが秀吉の逆鱗に触れたとして、死罪を言い渡されます。
直接の理由については私的な商行為が忌み嫌われた、宗教・政治的影響力を警戒された、弟子の婚姻問題を巡る対立が火種となったなど諸説ある上、利休本人が割腹したという説のほか、本人逃亡ののちに「身代わり割腹」が行われたという説まで残っており、その最期は今なおミステリアスな、というよりは不可解なベールに包まれています。
そもそもを言うのであれば、この一件は利休の言動云々のみからではなく、豊臣秀吉その人の持つ二面性や品格等々とセットで語られることが多いエピソードとしても有名で、その文脈からであれば、秀吉が権力の象徴として造らせた「黄金の茶室」を巡る確執が、二人の決定的な決別を象徴する俗説としてよく語られます。
曰く、質素さの中に美を見出す「わび茶」を極めた利休が、成金的な絢爛さを好んだ秀吉の価値観を断固として受け入れなかったことで双方に亀裂が生じた、とする解釈ですね。
波乱の時代の革命家・織田信長や泰平の礎を築いた稀代の政治家・徳川家康といった戦国武将の頂点たちと比較しても、秀吉の逸話には明らかに異質な響きを伴うものが少なくありませんが、上記した利休の一件についてもまた、その異質性を示唆する要素を併せ持っていました。
ともあれ、「利休の死」によって、後の三千家のルーツである千家もまた断絶の危機に瀕し、当時の利休の後継者であった少庵も追放の身となります。
現在の表千家へと続く千家は、後の「三千家」(表千家・裏千家・武者小路千家)のルーツとなる流派でもありますが、この危機を救ったのが会津藩主・蒲生氏郷でした。
「利休と共にわび茶の伝統まで失うのはあまりに惜しい」と判断した氏郷は少庵を会津に匿いますが、現在、鶴ヶ城に残る茶室「麟閣」は、その縁で少庵が氏郷のために建てたものと伝えられています。
やがて氏郷や家康の働きかけによって秀吉から千家再興の許しを得た少庵は京都へ戻り、後の三千家へと繋がる足掛かりを築くのですが、以降、千利休縁の茶室麟閣は江戸時代全期間を通じ、会津藩にて大切に維持されました。
後日談として、戊辰戦争後の鶴ヶ城取り壊し時には茶室は保護のため移築され、長らく本丸の外に出ることとなったのですが、1990年(平成2年)、会津若松市の市制90年を記念して元の鶴ヶ城本丸内へと”里帰り”することになり、現在地で公開される運びとなりました。

