鶴ヶ城周辺の史跡8
柴四朗・五郎生家跡

会津人初の陸軍大将・柴五郎さんと、その実兄である柴四朗さんの生家跡があります。

「陸軍」と刻まれた文字がかろうじて読めるという石柱が、現在「生家跡」の目印となっています。

すぐ後ろには観光協会の解説も用意されていますが、明治・大正期の会津若松は帝国陸軍の軍都であり、城前町を含む鶴ヶ城傍の一帯は、歩兵第六十五連隊が営舎を設置する拠点となっていたようです(参考:福島県立博物館 “会津若松と軍隊“、国立国会図書館サーチ “歩兵第六十五連隊営門“)。
戦後、軍施設はGHQに接収され、接収解除後には営舎が困窮者や引揚者の仮住居となった後、現在の城前団地やつばくろ公園としての利用へと繋がって行きました。

つばくろ公園は、会津若松市が国から無償貸与を受けた土地が、公園として活用される形となっていますが(参考:会津若松市公式サイト “つばくろ公園“)、

そのつばくろ児童公園内の一画に、どこかひっそりという形で「跡地案内」が残されています。
柴五郎と近代日本
柴四朗と柴五郎
「世界の中の日本」が日進月歩の成長を遂げていた、明治・大正期。
兄の四朗さんは政治家として、弟の五郎さんは軍人として、柴兄弟は共に近代日本の発展に多大な貢献をして名を残すのですが、
- 会津戊辰戦争後の旧会津藩士の苦難を記した名著、『ある明治人の記録』を残したこと
- 北京駐在武官時代に発生した北清事変にて、圧倒的不利だった籠城戦を勝利に導いたこと
- 会津人初の陸軍大将となったこと
などの理由から、特に弟の五郎さんの知名度が突出する形で後世に伝わります。
中でも特に「内外に大きな影響を与えた」柴五郎さんの実績としては、「北清事変での籠城戦指揮」がのちの日本の命運を決することになったとして、しばしば取り上げられます。
北清事変と柴五郎、日英同盟
北清事変(1900-01年)は、清朝が列強に対して宣戦布告し、のちに敗戦したという、日本を当事者国に含んだ中国大陸での軍事衝突です。
日清戦争(1894-95年)後の中国大陸の混乱の中、時の中国の宗教系結社である「義和団」が、「扶清滅洋」(清を扶けて洋=海外勢力を滅ぼす)をスローガンとして日本や列強の施設襲撃を繰り返した暴動が前提となっています。
冒頭に記したように、最終的には清朝が義和団側に立って宣戦布告したことによって、列強は「自国民保護」のための軍事介入を余儀なくされ北清事変に発展するのですが、元々は暴動に始まり最終的に戦争に至ったという紛争の性質から、義和団の乱とも北清事変とも呼ばれます。
その北清事変(義和団の乱)において430名の兵士と150名の義勇兵で1万を超える義和団を相手に二か月間の籠城戦を余儀なくされたのが、当時北京で陸軍駐在武官を勤めていた、中佐時代の柴五郎さんでした。
後に駐日英国公使や初代駐日英国大使を歴任することとなるクロード・マックスウェル・マクドナルドの下、
- 北京の公使館街での籠城戦において、帝国陸軍の柴五郎中佐が見事な指揮をとったこと
- 彼の指揮下にあった日本兵が、絶望的な戦力差の中、勇猛に戦い抜いたこと
- 援軍の到着まで持ちこたえたことによって、圧倒的に不利だった籠城戦を勝ち戦につなげたこと
これらが高く評価される形で後の日英同盟締結を呼び込むのですが、当時の英国は19世紀国際社会の頂点で「栄光ある孤立」を保っていた、すなわち弱肉強食の国際社会に軍事同盟無しで君臨していた、圧倒的な力を持つ国でした。
そのイギリスの「栄光ある孤立」は、司馬遼太郎さん曰く「開花期を迎えようとしていた、まことに小さな国」に過ぎなかった当時の日本相手の日英同盟締結によって終了しますが、日本の日露戦争勝利はあくまで日英同盟締結やセオドア・ルーズベルトの仲裁あっての勝利だと捉えるなら、柴五郎中佐の指揮や日本兵の勇敢な活躍がのちの日露戦勝利を呼び込んだともいえるでしょう。
そもそも柴五郎さんにとっての「人生の刻苦」自体、捉え方如何では、あたかも近代日本の命運を背負うために用意されたものであるかのように響いてくる面も、無きにしも非ずです。サムライが消えた日本を救ったのもまたサムライの魂であったという「運命の巡り合わせ」は、どこか日露戦後の日本の運命を暗示していると同時に、今を生きる日本人への啓発でもあるのかもしれません。
参考:石光真人『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』中公新書(2017.12.25)、会津若松市公式サイト “福島県人初の陸軍大将 柴五郎“、国際留学生協会・現代日本の源流 “柴五郎“、群馬大学大学院医学系研究科・教授コラム “柴五郎が守り通したもの“

