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【ドライブto新潟 初日】世界遺産・富岡製糸場へ

小旅行ドライブto新潟

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【ドライブto新潟 初日】世界遺産・富岡製糸場へ

富岡製糸場へ

ロケーション

新潟へのドライブ小旅行初日午後、最初の見学スポットとして、世界遺産となった富岡製糸場へ立ち寄りました。

富岡製糸場(富岡市公式サイト)は、蚕の繭から生糸を作るための工場として、1874年(明治5年)の創業以来、1987年(昭和62年)まで現役稼働していました。

電車の場合、養蚕業と交易のために通された路線である上野鉄道が母体となった上信電鉄の、上州富岡駅(上信電鉄公式サイト上州富岡駅“)が最寄り駅です(参考:上信電鉄公式サイト “沿革“)。

世界遺産の最寄り駅であることが売りにされている上州富岡駅と富岡製糸場の間には、ランチを取れるレストランもたくさん用意されています。

注意点としては、富岡製糸場周辺にはお土産屋さんと共に多数の駐車場がありますが、施設自体には駐車場はありません。

車での訪問を考えている場合、駐車場の位置をしっかり把握しておくことが必須となります。

生糸貿易の歴史的な経緯他

別記事へ移転しました(【街歩きと横浜史】開港と生糸貿易(旧生糸検査所と富岡製糸場))。

富岡製糸場へ

富岡製糸場の入り口付近からの風景です。

つきあたりに見える赤レンガの建物は東置繭所、この奥にもう一棟、ほぼ同じ大きさの西置繭所があります。”置繭所”の読みかたですが、公式パンフには”おきまゆじょ”とカナがふってあります。

門外からも見える東置繭所内部は、富岡製糸場の歴史を説明したボードなどが展示された、観光案内のためのスペースとして使われています。

検査人館

門を入ってすぐ横には、券売所と、その並びに管理事務所があります。

現在の管理事務所は、製糸場操業時に検査人館(検査人の寄宿舎)として機能していた建物です。

検査人とは出来上がった生糸の質をチェックする人たちのことですが、生糸の大量生産が進むにつれて目立つようになった粗悪品対策のために、その役職が設けられました。

貿易港である横浜や神戸(参考:デザイン都市神戸 “旧神戸生糸検査所のあゆみ“)には生糸検査所が置かれていましたが、富岡で作られた生糸は、富岡での検査、横浜での検査を通過した後、横浜港を通じてアメリカへと輸出されました。

製糸業と蚕

開国後の日本において、諸々の事情から結果として都市と都市をつなぎ、かつ貿易立国としての土台を作りあげたという、国家存立の影の立役者となった蚕さんです。

今も富岡製糸場内で、食べたり寝たりしています。

蚕は現在野生に存在することが出来ない生物なので、生糸の原料となる繭を作るために生まれて来て、人間に育てられつつ生きていくという一生を送ります。文字通り”温室育ち”の無数の蚕の生涯が富国強兵の原動力となり、インフラの在り方さえも変えていく大変革の源流となったんですね。

施設内walking

東置繭所

蚕さんたちのかつての住居だった、東置繭所を外から見た様子です。左側は検査人館・女工館です。女工館は、日本人の女工に製糸の技術を教えるために雇われた、フランス人女教師達のための住居として設置されました。

東置繭館、赤レンガ造りの建物の内部の様子です。残された部分だけから判断しても、立派なスペースだったのであろうことはが伝わってきます。

生糸工場/役員用社宅

蚕の住居だった東置繭所(右)の左隣は生糸工場で、

東西の置繭所のすぐそば、東置繭所よりのところには、役員用の社宅があります。

ブリュナ館(旧ポール・ブリュナ宅)

置繭所や繰糸所(製糸工場)を挟んで反対側に位置する建物のうち、目を引くのは製糸場のお雇い外国人だったポール・ブリュナの住居=ブリュナ館です。記念撮影用のプレートがすぐ前に出ていますが、かなり立派な建物です。個人の住居というよりは、見た目的にも大きさ的にも、体育館や講堂のようにも見えます。

ブリュナ館の前には、世界遺産登録を記念した碑が置かれています。

女工さん達の寮=寄宿舎

ブリュナ館のすぐとなりにあるのが、製糸場で働いていた女工さん達の寮=寄宿舎です。

建物の老朽化自体は鮮明ですが、それでも一見したところ修復さえすれば今でも十分人が住める建物には見えるあたり、明治の世に新設された当時は立派な寮だったのであろうことが察せられるところですね。

実際、創業時の富岡製糸場で女工さんをしていた和田英さんの『富岡日記』によると、富岡製糸場での工員生活は、規則正しくもそれなりに張り合いがあり、楽しいものだったようです。

とはいえ周知のように、女工生活の実態については、往々にして『女工哀史』や『ああ野麦峠』で描かれている”悲惨な女工”のイメージが先行することもままあります。

この点、”規則正しくも張り合いがある、充実した毎日だった”のか、それとも”ただただ悲惨な毎日の中で、ひたすら労働力として搾取され続けた”、どちらが絶対的な正解なのだというよりは、参考とする資料によって極端な違いが生じる節がある、各々の工場の操業実態には随分な違いが出てくる場合もあったのだというのが本当のところだったのでしょう。

診療所

ブリュナ館、女工館(フランス人女性指導教官宅)のすぐ傍には診療所があります。

付近一帯は、そのまま、在りし日の雰囲気を残しているようにも見えます。

右側の建物が診療所、左がブリュナ館です。

鏑(かぶら)川

富岡製糸場のすぐ横を流れるのは、鏑(かぶら)川です。

綺麗な水を利用できることも製糸場設置の条件に挙げられるものですが、今は観光地・富岡製糸場の魅力の一部となっています。富岡製糸場全体は、単なる一製糸工場であるというだけではなくて、河沿いにある工場を持った小さな村のように見えました。

アクセス

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