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【旧街道と宿場町】街道整備と江戸時代の旅

旧街道/宿場町/城下町

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【旧街道と宿場町】街道整備と江戸時代の旅

種々の”街道”

現在の”街道”には、およそ江戸時代までに整備された旧街道以来の由緒を持つものと、その後新たに街道と命名されたもの、二つのパターンがありますが、今回は旧街道以来の由緒を持つものについて取り上げます。

五畿七道から五街道へ

五畿と七道

古代の”五畿”および”七道”とは、交通路によって分けられた当時の地方区画を指します。

道そのものというよりは、道を含む地方と言ったニュアンスに近いのが古代の七道ですが、当時の政治の中心地=五畿から地方へ伸びた七道は、それぞれ東海道、東山道(中部・北関東・東北)、北陸道、山陰道、山陽道、南海道(四国)、西海道(九州)と命名されました。

東海道現在の茨城、千葉、埼玉、東京、神奈川、山梨、静岡、愛知、三重(南海道に含まれる熊野地方を除く)の各都県を合わせた地域
東山道現在の青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島の東北6県と、栃木、群馬、長野、岐阜、滋賀の各県を合わせた地域
北陸道現在の新潟、富山、石川、福井の各県を合わせた地域
山陽道現在の兵庫県南部と、岡山、広島、山口の各県を合わせた地域
山陰道現在の京都府北部と兵庫県北部および、鳥取、島根の各県を合わせた地域
南海道現在の香川、徳島、愛媛、高知の四国4県と、三重県熊野地方、和歌山県、淡路島を合わせた地域
西海道現在の福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎、熊本、鹿児島の九州7県

古代の東海道は”うみつみち”、東山道は”やまのみち”と呼ばれていたようで、東海道で用いられている”海道”は「海沿いにある国々」を意味していたといわれています(参考:国土交通省関東地方整備局・横浜国道事務所 “東海道への誘い 東海道について“)。

同様に、南海道=南の海沿いにある国々、西海道=西の海沿いにある国々、ですね。

また、”畿”は、語義的には都を意味する語です。

五畿とは大和国(奈良)、山城国(京都)、摂津国(大阪・兵庫)、河内国(大阪)、和泉国(大阪)の五か国を指しますが、古代の日本では、五畿の外にあるエリアが、律令制の実施と共に五畿に紐づけられて行ったんですね。

五畿七道の制定によって、駅伝制の整備と共に通された道はもっぱら公用のため、律令制を柱とした中央集権体制を固めるために使用されました。

つまり、地方ではなく道としての”七道”は、その発祥以来、時の政権と命運を共にする運命にあったのだということで、鎌倉幕府の成立以降、それでも鎌倉と京を結ぶ道として機能し続けたという東海道のような例外を除くと、多くは維持困難となって廃れていきます。

七道の衰退と中世の道

中世以降、律令制に紐づけられていた七道の代わりに栄えたのは、元々民間人が私生活で用いていた私道でした。

鎌倉・室町期には、古代の七道とは別に、新たに栄えることになった私道・街道で民間人の往来が急増するようになったことから、関所が多く作られます。

関所の設置は、通行量に比例して伸びていく関銭収入が目的とされました。

その期待通り、やがて関銭は室町幕府や守護大名、さらには荘園領主にとっての貴重な財源となっていくのですが、織田信長の経済政策では通行の利便性が重視された結果、関銭徴収目当てで激増した関所が撤廃される運びとなります。

また、かつての七道と入れ替わりで栄えることとなった室町時代までの道の多くは、元々の地形や自然環境を克服できないままだったという面を持っていた上、戦国期には各々の大名の勢力範囲ごとに防衛線が張られる形で領土も街道も分割され、日本全国は事実上分断統治される状態へ向かいます。

江戸時代の街道整備

旧街道の大きな転換点は、江戸時代のはじまりと共にありました。

江戸幕府の開祖・徳川家康は幕府の支配をより盤石なものとするため、数々の政策と共に五街道の整備に着手します(近代以降の交通網も、この時以降に整備された街道がベースとなる形で発展します)。

七道時代から続く東海道や東山道(東山道が元となった中山道が作られます)の他、新たに甲州街道、日光街道、奥州街道が通され、全て幕府が直轄する”五街道”となりました。

道中奉行によって管理された街道上には、宿駅(宿場町)の他に改めて関所が置かれ、警備の拠点とされます。

街道の整備と同時に江戸の防備を考える必要に迫られたことから、家康は信長が撤廃した関所を再興し警備の義務を与えるのですが、ここに「入り鉄砲(江戸に入る武器)に出女(大名の妻=人質の逃亡防止)」に特に厳しかったと言われる、関所の厳格な取り締まりが始まりました。

五街道からは、やがて脇街道、あるいは脇往還などと呼ばれる多くの脇道(五街道以外の旧街道です)が派生していくのですが、ここでいう”脇”とは五街道以外の道であることを意味します。

宿場町と問屋場

江戸時代の街道では、一里(約3.9キロ。かつては人が一時間で歩く距離が一里だとされていました)毎に一里塚が置かれ、2~3里毎に宿場町(宿駅)が置かれます。

宿場町の中には大名や公家、さらには幕府の役人等が宿泊するための本陣、本陣を補う施設として利用された脇本陣、庶民が宿泊するための旅籠や木賃宿の他、街道を公用(参勤交代時の大名の利用とは異なる、幕府の仕事です)に供するための措置として、宿場町ごとに”問屋(といや)場”の設置が義務付けられていました。

この場合の問屋とは、現在一般的に言われる卸売業者さんや取次業者さん、運送業者さん等々のことではなく、宿場町において人馬継立(宿場町と宿場町の間の馬・人に関する交通取次)を担っていた、公営の”問屋場”を指しています。

五街道を筆頭として整備された街道上の宿駅では、まずはじめに幕府の公用ありきの”御用街道”として人馬の供給が義務付けられた後に、その見返りとして、宿場の経営や運送業などの経営が容認された(結果として、宿場町としての発展が約束された)という形を取っていました(参考:武部健一『道路の日本史』中公新書、2015.5.25)。

まずはじめに”親方日の丸”ありきの公道だったという点、どこか律令制時代の七道を思わせるものがありますが、参勤交代制度に伴う大名行列の類は、幕府の公用以外の街道利用の代表格であり、少なくとも宿場町や問屋場にとって、”公用”とは異なる業務だったんですね。

一般論としては、問屋場が請け負った陣馬継立業務は宿場町のみで賄うことが出来る業務ではなく、街道周辺の村からの助力(=人馬の補助)も必要とします。

問屋場の業務を補佐する仕事は助郷役、補佐業務を担う近隣の村は助郷(助郷村)と呼ばれていました。問屋場の仕事や助郷業務は、交通網の発達や通行量の増加と共にその負担が増し、助郷の範囲も拡大していくことになるのですが、やがて農村の疲弊や一揆につながるケースも出てきました。

その反面、江戸時代に街道が整備され、宿場町が充実し、交通量が増えたことは、当時の文化発展に大きく寄与していくこととなります。

信州街道・草津道・草津街道

以下、新潟へのドライブ道中で走行した、信州街道・草津道・草津街道の例で見てみます。

現在の草津街道=国道406号線は、かつては信州街道と呼ばれていました。

旧信州街道は、旧中山道の宿場町・高崎宿から分岐した脇街道にあたりますが、かつての草津道自体も、元々は旧信州街道の脇街道として整備されます。

中山道の脇街道にあたるのが旧信州街道で、旧信州街道上からはじまる脇街道が草津道だという関係にありますが、例えば江戸(日本橋)から草津へ湯治に行くなどという場合、中山道の旧高崎宿、さらには旧信州街道の須賀尾宿で、進む街道を変更する必要がありました。

高崎宿や須賀尾宿は鉄道でいうところの乗換駅にあたりますが、江戸・日本橋から中山道で高崎宿まで出て、高崎宿からは信州街道沿いに須賀尾宿まで、須賀尾宿から先は草津道で草津を目指す、といった形の行程になります。

信州街道と草津道

国道406号線を高崎発で見た場合、高崎市内に国道18号線(地図中央。旧五街道の中山道です)との分岐点があります。地図中央付近から左上に向かって通されている国道406号線は、中山道の脇街道にあたる旧信州街道=”現在の草津街道”です。

今もこの国道上にかつての面影を残す旧須賀尾宿は、かつての草津道への分岐点でもありました。

信州街道・須賀尾宿:草津道への分岐点

須賀尾宿は、17世紀初頭(1624年)に出来た、旧信州街道沿いの宿場町です。

幕末の侠客であった国定忠治が関所破りをし、かつ処刑されて最期を迎えたという曰くのある大戸関所跡も同じ通り沿いにありますが、関所跡あり、宿場町跡ありという、草津街道(旧・信州街道)上でも近世以来の街道だったことを思わせる雰囲気を持っています。

グーグルマップの写真で道路の両サイドに小さく写っている木製の看板は、かつての旅籠や商家の屋号と思しきものが書かれた木看板です。

草津街道

かつての宿場町一帯を含む草津街道(旧・信州街道)沿いを過ぎ、現代の草津道=草津街道へ。

須賀尾宿一帯を通過すると、時に道幅が狭くなり、カーブの連続になりという形で草津へと向かうのですが、道沿いに街灯はほぼなく、道の横を見ればかなり奥の方まで見渡せる森が続きます。

残念ながらこの道がそのまま昔の草津道だったということではなさそうなのですが、どこか時代小説の中の風景を思わせるような道でもあります。

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