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【東京街歩き】吾妻橋(浅草寺、墨田公園傍、墨田川上)

日帰り旅/国内小旅行

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【東京街歩き】吾妻橋(浅草寺、墨田公園傍、墨田川上)

吾妻橋

吾妻橋と隅田川

台東区、墨田区、墨田公園

吾妻あずま橋は、浅草寺浅草寺公式サイト)や浅草駅などから至近距離にある、墨田川上に架けられた橋です。丁度台東区・墨田区両区の境を流れるのが墨田川なのですが、墨田区側から見ると橋の袂に位置する浅草警察の花川戸交番はじめ、浅草の駅前界隈が視界に入り、

反対に台東区側から橋上を望むと、橋の向こうにアサヒグループの本社ビルや東京スカイツリーを望むことが出来ます。

河川敷には、墨田区側、台東区側共に隅田公園(墨田区観光協会墨田公園“、台東区公式サイト “公園のパンフレット“)が用意されています。

少し位置は離れていますが、同じ墨田川沿いということでは、四十七士の物語では敵役となってしまった吉良上野介の邸宅跡地である旧吉良邸跡も墨田区内、隅田川沿いから近いところに位置しています。

about 吾妻橋

今をさかのぼること約250年前(安永3年=1774年)、江戸幕府10代将軍徳川家治の治世において、当時”大川”と呼ばれていた現在の墨田川上に木製の橋として架けられたのが、初代・吾妻橋です。

架橋当時は墨田川が大川と呼ばれていたことから”大川橋”と呼ばれていましたが、明治9年=1876年の架け替えを機に、現在と同じく”吾妻橋”と呼ばれる運びとなりました。

名前の由来は、「江戸の東にあるからあずま橋となった」、あるいは「吾嬬あずま神社(墨田区観光協会 “吾嬬神社“)に向けて架けられた橋だからあずま橋となった」など、諸説あるようです。

ちなみに、”大川橋”は幕府の肝煎りで架けられた橋ではなく、6名の町人が幕府の許可を受けて架橋したという民営タイプの橋だったようですが、民営の橋となった理由については、八代将軍徳川吉宗が主導した”享保の改革”以来の緊縮財政の影響を受けたものだったようです。

現在の橋は、関東大震災被災後の昭和6年=1931年に架けられたもので、墨田川上に架かる橋としては初の鉄橋に該当しますが、平成11年=1999年には、東京都選定歴史的建造物に指定されています(東京都都市整備局公式サイト “東京都選定歴史的建造物 一覧“)。

参考:錢高組吾妻橋“、道路WEB吾妻橋“、国立国会図書館 “錦絵で楽しむ江戸の名所吾妻橋

墨田川・吾妻橋と”レガッタ”

墨田川、吾妻橋界隈の一大イベントには、毎年4月開催の恒例イベント”早慶レガッタ”があります(The REGATTA公式サイト墨田区公式サイト台東区公式サイト)。

いわゆる”早慶戦”の倣いとして、一般的には早慶(多分、語呂の良さからですね)、早稲田側の呼称でも早慶、ただし慶應側(体育会各部や応援指導部等)の呼称としては”慶早”になることもあるという(以前は割と徹底されていた記憶があるのですが、この辺りも最近は場面や人によっているようです)、早慶、あるいは慶早レガッタですね(以下、”通称”の方で続けます)。

早慶レガッタは、1905年=明治38年に第一回大会が開催されて以来、100年を超える歴史を持つ伝統行事です。

野球、ラグビーと並ぶ”三大早慶戦”の一つにカウントされると同時に、”オックスフォード大学vsケンブリッジ大学”の”The Boat Race”、”ハーバード大学vsイェール大学”の対抗戦と並び、世界三大レガッタの一つにカウントされています。

世界を含む”三大〇〇”が二重に絡んでくるあたり、100年超の時間をかけて人気も伝統もあるレースとして育ってきたことを感じさせられますが、レースは日本橋にある新大橋(中央区・江東区間)の上流から、吾妻橋の3つ先に架けられた桜橋(台東区・墨田区間)の上流までの間で競われます。

長い間地域に密着する形の人気行事であり続けたということで、レース当日の墨田公園やゴールとなる桜橋上は大混雑となるのですが、”レガッタ”開催が近くなると、仲見世に慶應・早稲田両校の旗を掲げてイベントを盛り上げたりもするようです(参考:レガッタ公式サイト “仲見世通りに両校の旗をさしました!“)。

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