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【開港都市・長崎の風景】長崎新地中華街(エアポートライナー乗降、日本三大中華街)
エアポートライナーと長崎新地中華街
長崎市の中心部を観光する場合、長崎空港に降り立った後、まずはじめに空港から市街地に進む必要があるのですが、長崎空港(公式サイト)のある大村市からJR長崎駅や長崎県庁、長崎市役所等がある長崎市の中心部へは少々距離があります。
空港からはリムジン(長崎バス公式サイト “長崎空港線エアポートライナー“)で移動するのが効率の良い進み方だと思いますが(約40分。料金は一律で、大人1200円子供600円)、空港発後、リムジンが次に停車するのが市内の中心部にあたる”新地中華街”です(参考:長崎空港から市内中心部(長崎新地中華街)へ)。
長崎新地中華街
長崎新地中華街(公式サイト)は、横浜中華街(公式サイト)、神戸の南京町(公式サイト)と並んで、日本三大中華街の一角を占めています。現在は、毎年冬のランタンフェスティバル(ながさき旅ネット “長崎ランタンフェスティバル“)が名物となっていることでもおなじみですね。
横浜中華街や南京町のはじまりが19世紀半ばにあることに対して、新地中華街の歴史は江戸時代中期・元禄年間(17世紀末~18世紀初頭)以来のものであるという、三大中華街最古、かつ国内最古の中華街です。
その由緒を辿ると、横浜・神戸の中華街同様、中国人居留民の居留地であったことに端を発するようですが、発足当初の居留地の規模については、人口規模では当時の長崎の人口6万人に対し、中国人居留民の人口1万人と、かなり大きいものだったようです(参考:長崎新地中華街公式サイト “長崎新地中華街のご案内“)。
新地の中華街の裏手には唐人屋敷という旧・中国人居留地がありますが、かつてはこの唐人屋敷が中国人居留地だったところ、元禄年間に発生した大火を契機としてその前面にあたる部分が埋め立てられて”新地蔵所”と命名され、以降の中国との交易で利用されたようです。
中華街の内部には、かつて大火後に作られた新地の倉跡の碑が置かれ、
その案内板も置かれています。
明治の世になり唐人屋敷・新地蔵所共にかつての機能が廃止されると、中国人居留民たちは唐人屋敷エリアから新地蔵所の跡地(現在の新地中華街)に移り住み、現在につながる中華街を形成していった、とのことです(参考:長崎新地中華街公式サイト “長崎新地中華街のご案内“)。
新地中華街の門の前には新地橋という橋が架けられていて、
門をくぐるとそのまま新地中華街へと進みます。
内部には十字に交差する大きい通りが二本あって、その通り沿いにお店が林立しているという感じになっていますが、レストラン、食べ歩きのお店、雑貨屋さんなど約40店舗が軒を構えているようです。
ともすると内部で迷子になりかねない規模を持つ横浜中華街と比べると、こじんまりした中華街です。
新地とその周辺の景観は、これまでに数々の賞を受賞してきているようです。
注意点として、新地の中華街では月曜定休のお店が多いように見えました。それでも賑わいはあったのですが、新地を観光の本命にする場合”月曜日以外”が狙い目ではないでしょうか、といったことは思わされました。
ちなみに今回の長崎詣ででは、空港へと戻る前の時間帯で、小腹を満たす感じで長崎名物・皿うどんをいただきました。美味しかったです。