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【冬の東北・信越青春18きっぷ旅/その5】旧会津藩・鶴ヶ城へ
会津若松と鶴ヶ城
鶴ヶ城入口
会津若松駅前からまちなか周遊バス(会津バス公式サイト “会津とあそぼう!!まちなか周遊バス“)を利用して、鶴ヶ城(公式サイト、公式X)前まで。
正式名称は鶴ヶ城ですが、若松城、会津若松城とも呼ばれているようです。
まちなか周遊バスの”鶴ヶ城北口”バス停傍には”入口”の碑が建てられていますが、その奥に内堀があって、内堀の向こうには鶴ヶ城の天守閣が望めます。
いよいよ会津のお城が近づいて来た、という一画ですね。
北出丸大通り
バス通りに直交してまっすぐお城に向かって伸びた通りは、北出丸大通りと命名されています。
鶴ヶ城の”北の出丸”から伸びた大通りだということが命名の由来です。
“出丸“とはお城本体から突き出して作られた防御・攻撃施設地(=周辺が掘や土塁などで固められた平坦地)のことで、曲輪とも呼ばれますが、この曲輪がやがて時代の流れと共に(特に江戸時代以降)”丸”(本丸、一の丸、二の丸等々)と呼ばれるようになって行ったという、名称の移り変わりがあるようです。
余談ですが、現在皇居の外苑にあって日本武道館などを含んでいる北の丸公園は、元々江戸城の北の”丸”だったことからその名が付きました(参考:環境省 “北の丸公園“)。
北出丸大通り自体、その名から察することが出来る通り、歴史的にも鶴ヶ城の直近に位置していますと言うことで、通り沿いには旧会津藩家老の西郷頼母邸宅跡、同じく会津藩家老の内藤家邸宅跡がある他、戊辰戦争を前にして再編された会津藩の軍制で新設され、16~17歳の武家の子弟で構成されていたという、”白虎隊”隊士の生家跡も点在していて、
“会津戊辰戦争終結の地”碑もおかれています。
1868年9月、この地にて、旧会津藩の幕末の戦い(会津戊辰戦争)が終わりを迎えた(同時にこの時を境として、旧会津藩士の試練の時が始まった)ことを意味する碑ですね。
内堀を超えて、鶴ヶ城へ
鶴ヶ城の周りには、内堀・外堀と二重の堀がめぐらされているのですが、現在、お城のすぐ周辺にあってめぐらされている堀は、全て旧・内堀です。
堀のすぐ向こうには鶴ヶ城が見えて、
お城の説明書きが用意されている他、
道中にはお茶屋さんも用意されています。
鶴ヶ城(会津若松城)
さらに進むと、”若松城跡”の石碑があります。
1934年(昭和9年)、鶴ヶ城ではなく”若松城”として史跡に指定されたようです。
“元・お城跡”の色がどんどん濃くなって行く一帯ですが、この付近一帯が、鶴ヶ城のいわゆる”北出丸”です(他、鶴ヶ城の”出丸”や”丸”には、西出丸や本丸等があります)。
堀の手前には武徳殿(公式サイト)という道場もありますが、公式サイト他の写真を見る分には、かなり立派な道場です。
1934年(昭和9年)に、日本の古武道の管理団体である大日本武徳会の全国道場組織の一つとして建てられた道場で、もちろん、今でも現役で利用されています(参考:福島民報 “1934(昭和9)年7月14日 会津武徳殿落成“、大日本武徳会公式サイト)。
旧・会津藩の居城を目の前にして、サムライの血統を受け継いだ古武術の道場で武道の教えを授かるって、一体どの位高いモチベーション生じることになるんでしょうね、なんてことを少々思わされた瞬間でもありました。
堀を渡ると、いよいよ鶴ヶ城がすぐ目の前まで迫って来ます。
現在春は桜、秋は紅葉が眩しい環境下にあるようで、四季折々の風情を感じられることも鶴ヶ城が持つ大きな魅力の一つとなっていますが、その歴史には看過できない悲劇も含まれています。
保科正之(二代将軍徳川秀忠の実子)以来、藩主は代々徳川将軍家と血縁関係にあったという藩としての立場、さらには当時の時勢の行きがかり上、二転三転した幕末の歴史に日本一翻弄されたといっても過言ではなかったのが松平容保時代の名門・会津藩ですが、居城である鶴ヶ城は、一か月の籠城戦後に会津藩が降伏して終戦の時を迎えた会津戊辰戦争の後、しばらくの間戦禍を残したままで廃墟となって取り壊しの時を待つこととなりました。
当時の鶴ヶ城のイメージは、大分県竹田市にある岡城、宮城県仙台市にある仙台城(通称・青葉城)などと並んで、”荒城の月”(参考:ゆめあるチャンネル “荒城の月“)のモデルとなり、後世に伝え残されています。
ほどなく訪れた鶴ヶ城解体の時は明治7年(1874年)。
“御一新”からの迷走が未だ続き、かつ士族からの反発も多かったという明治新政府の下で進められた急進的な”近代化”の代償として、時の日本が何を失うことになったのか。文明開化華やかなりし時代に進められた鶴ヶ城の解体は、どこかそれを象徴しているようにも感じられますね。
現在の鶴ヶ城は在りし日の鶴ヶ城をモデルとして、高度成長真っ只中の時期にあった1965年(昭和40年)に再建されたお城ですが、
武徳殿横からまっすぐ進むと、左手に位置するのが鶴ヶ城の天守閣、
その正面に位置するのが鶴ヶ城の表門=鉄門で、
この門をくぐって、鶴ヶ城の旧本丸エリアへと進みます。
戊辰戦争時、この門の上で藩主・松平容保が自ら指揮を執ったようですが、鉄門の向こうには現在、茶室や多くの史跡が残されています。