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【街歩きと鎌倉史】鎌倉五山と五山・十刹、山号の歴史

街歩きと鎌倉史

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【街歩きと鎌倉史】鎌倉五山と五山・十刹、山号の歴史

鎌倉五山のロケーション

鎌倉五山が海沿いではなく山の中にあるという偏りは、禅宗(臨済宗)のお寺が好んで山野部に建てられたという歴史的な経緯によっています(”山号”について、後述)。

第五位の浄妙寺、第三位の寿福寺はJR北鎌倉駅からだとやや距離がありますが、そのほかの三山(第二位の円覚寺公式サイト)、第四位の浄智寺公式サイト)、第一位の建長寺公式サイト))が北鎌倉駅に近いところに位置しているので、どちらかというと”五山歩き”はJR北鎌倉駅発のコース(県道21号線、同204号線を軸とするもの)がお勧めです。

 

五山制度と山号

鎌倉五山と京都五山

“五山”の制度は、南宋の官寺の制に倣う形で鎌倉幕府第九代執権・北条貞時が導入し、建武の新政を進めた後醍醐天皇や足利直義らによって五山・十刹(じっさつ)が定められた後、最終的に室町幕府第三代将軍・足利義満によって寺格が体制に組み込まれる形で、”五山・十刹の制”として確立されました。

ただし鎌倉時代の五山制度の実態については詳細が不明であるため、”導入者”についても所説あって、第五代執権・北条時頼によって五山の制度が定められた後、前記の第九代執権・北条貞時によって浄智寺が五山に含められた(導入したのは貞時ではなく時頼である)という見方もあるようです。

続く室町時代に足利義満が整えた制度では、”五山・十刹”の上に京都の南禅寺(公式サイト)が禅宗の大本山として置かれた上で、鎌倉と京都の五山、さらには各地の十刹がそれに次ぐ官寺として捉えられます。

当初は何度か寺格の入れ替えも行われたようですが、1386年には、

鎌倉五山は一位から順に、建長寺円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺

京都五山は同じく一位から順に、天龍寺相国寺建仁寺東福寺万寿寺

という、現在の形に整えられました(リンクは全て公式サイトです)。

 

五山・十刹と北山文化

鎌倉、京都とも5つの寺が指定された”五山”に対し、日本の制度では”十刹”には寺数に制限がなかったため、各地で10以上の寺(中世末で230)が指定されたようです。

五山・十刹の制が整えられた足利義満の時代には、特に五山を中心として、水墨画や建築、漢詩文学(=五山文学)など中国文化の影響を強く受けた文化が発信され、このことが当時の武家文化の形成にも大きな影響を与えていきます。

当時の文化は、京都の北山に建てられた山荘・金閣を中心として栄えたことから”北山文化”と呼ばれますが、武家文化が公家文化を取り込む形で栄えたことに特徴を持つ北山文化の一側面を担ったのが、”五山”が発信した五山文学でした。

 

山号

お寺と”山”

五山のいう”山”とは、お寺のことです。

一般にお寺を作ることを”開山”と言ったりしますが、寺の名前に付された山の名前は”山号”(さんごう)といいます。

「その山にあるお寺だ」という意味ですね。

例えば鎌倉五山でいえば、”巨福山(こふくざん)”建長寺、”瑞鹿山(ずいろくさん)”円覚興聖禅寺(円覚寺)で言われる、それぞれ”巨福山””瑞鹿山”が山号にあたります。

 

開山と創建(開基)

開山とは信仰対象としての形=信仰の対象となる”お寺”を整えること(質素なものでも可)を指し、創建(開基とも言われます)とは信仰対象に経済的な実態が伴った状態(立派なお寺などが作られた状態)を指します。

 

山号と五山制度のルーツ

天竺(てんじく)五精舎

寺社名の前に山の名前=山号を付す制度は、中国(宋代=960年~1279年)から伝わったものですが、中国の五山制度はインドの五山制度=天竺五精舎を中国風に模したものとしてはじまりました。

ちなみに天竺(てんじく)とはインドの旧名、精舎(しょうじゃ)とは日本でいうお寺のことです。

天竺の精舎の中でも、特に格式が高かった5つの精舎が天竺五精舎(=天竺五山)で、インドの仏教史の中でもこの5つの精舎は別格であったというとらえ方をされています。

天竺五精舎の起こりは初期仏教の時代、およそ釈迦の存命中にあたる紀元前5世紀ごろの話しですが、『平家物語』の冒頭に出てくる有名な一文で『祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声 諸行無常の響きあり』と謳われた”祇園精舎”は、仏教の開祖・釈迦が存命中の拠点とした(=説法を行った)精舎であり、天竺五精舎の一つに数えられています。

 

南宋から中世日本へ

元々は「天竺においては五つの精舎が別格である」ということが要所だったところ、やがて”天竺五精舎”の存在が南宋時代の中国へ伝わると、制度自体に「時の権力者が寺院勢力を自ら掌握するために、制度として利用する」というニュアンスが含まれます。

その結果、禅宗が盛んとなった唐代(618年~907年)以降の中国では、禅宗の寺の多くが山中に建てられたことから、前記した”山号”の使用が一般的となるのですが、このことから後に作られた『5つのお寺』を特別視する制度についても『五山』制度と銘打たれ、南宋政府の統制下に組み込まれます。

後に鎌倉時代の日本で臨済宗などの禅宗や、山号を利用する慣習と共に五山制度が取り込まれると、既述のようにその制度は足利義満の時代に制度として確立されました。

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