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【街歩きと横浜史】日米和親条約と日米修好通商条約

史跡

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【街歩きと横浜史】日米和親条約と日米修好通商条約

和親条約と修好通商条約

条約締結と開港

1854年(安政元年)に締結された日米和親条約=神奈川条約は、アメリカに対する下田・箱館の開港等を取り決めた条約です。

ペリー一行が現在の開港広場公園付近に上陸した後、神奈川県庁付近に設けられた応接場において(日米双方の代表間で)締結されたといわれていますが、日米和親条約はアメリカ以外の三国(イギリス、オランダ、ロシア)との和親条約締結、さらには日米の交易開始その他を取り決めた日米修好通商条約締結への突破口となった条約にもあたります。

元々アメリカをはじめとする諸外国の狙いは、自国との外交関係開始=国交樹立を促すことそれのみではなく、貿易港を開かせ、日本と自国の交易を自国に有利な形で開始することにありました(参考:横浜の開港と神奈川運上所)。

つまり”和親条約”はあくまで最初のステップであり、はじめから本命は”修好通商条約”の方だったんですね。

1858年(安政5年)に締結された日米修好通商条約においても、まずはアメリカが条約締結し、他国(イギリス、フランス、ロシア、オランダ)がそれに倣うという形が取られることになるのですが、日米修好通商条約締結によって、神奈川(=横浜)をはじめとする5港(箱館長崎新潟、兵庫=神戸)が開港されました。

列強各国と”和親条約”を締結した後の日本が、引き続き列強各国(アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダ)と締結した通商条約は、まとめて安政の五カ国条約とも言われています。

安政の五か国条約は、諸外国に領事裁判権(日本国内で起こった外国人の犯罪を、日本の法律・法廷ではなく、当該外国人の母国の領事が母国の法律で裁く権利)を認めていた他、関税自主権(自国の関税を自国で決める権利)がなかったなど、明治維新後も長らく日本の足かせとなっていく不平等条約ではあったのですが、日米和親条約・修好通商条約の締結によって、近代日本が幕を開けることになりました。

ちなみに日米修好通商条約締結を記念した石碑は、同じ横浜市内・金沢区の八景島北東部にあるシンボルタワー内に”アメリカン・アンカレッジ記念碑”が、2009年(平成21年)に横浜開港150周年を記念して設置されました(参考:横浜市公式サイト “アメリカン・アンカレッジ記念碑“)。

条約締結後の横浜

開港広場において日本との通商開始の突破口を開いたのは、当時の国際社会の新興国だったアメリカ・フィルモア大統領の国書を持った米海軍のペリー提督でしたが、条約締結による開国・開港後の日本との関係においては、当時の世界の覇権国であるイギリスが”最有力”の立場を築き上げました(参考:一例として、鉄道敷設前夜の事情)。

当時のアメリカがイギリスから独立して間もない国であり、欧州の争いに対しては不干渉を貫くことを国是としていた一方、長年のライバル関係にあったイギリス・フランスが幕末日本でも真っ向から対立し、最終的には討幕勢力を支援していた英国優位で事が進んだことに理由がありますが、開港期から昭和の初めに至る横浜の跡を追っていくと、イギリスの影響を強く受けていることがわかります。

たとえば、”日本初の外資系企業”と言われる英一番館がイギリス系企業だったことの他にも、山手地区にはかつて英軍が陣取ったことに由来する陣屋坂がある、英国軍の軍楽隊員(ウイリアム・フェントン)の指導を受けた薩摩藩の軍楽隊が、日本で初めて吹奏楽(国歌・君が代)を演奏した地が山手公園傍にある、日本大通りや横浜公園をイギリス人技師が設計したことや、日本初の鉄道敷設にイギリス人技師が関与していたことなど、そこかしこに足跡が残されています。

やがて”不平等”も段階的に撤廃され、そのことは当時の外国人居留地のあり方にも影響を与えていくことになるのですが(参考:山下公園 “開港後の山下町(外国人居留地)の発展“)、貿易港としての横浜の成長・発展の跡も、現在、開港広場公園内の碑石に残されています。

アクセス

“日米和親条約締結の地”碑

アメリカンアンカレッジ(日米修好通商条約締結の地)

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