エッセイ/小説/趣味

【書評/エッセイ】『江戸の味を食べたくなって』

この記事を読むのに必要な時間は約 3 分9秒です。

池波正太郎『江戸の味を食べたくなって』(新潮文庫、2010年)

「グルメ」の語源はフランス語にあって、そもそもがワインの利き酒をする人を指したようです。

大昔(中世盛期、およそ10c~12c)の西欧では上流階級(=征服者)がフランス語を使い、そうでない層(=被征服者)が英語を使った、そのことが食文化を彩る語源にも残されているという、あるいはそんな次元の話しと共に残されたルーツかもしれません。

ここでいう征服者と被征服者の違いは、例えば生物としての牛や豚(Ox,Cow,Pig)と、食材としての牛や豚(beef,Pork)、それぞれの語源が異なる部分に残されているといわれています。

「食べ物」の世話をする人(被征服者)と、食べ物を食べる人(征服者)の違いに現れた言葉の相違で、前者は古来よりの英語、後者はフランス語を語源に持つ英語、ということらしいです。

「征服」「被征服」の別は、まさに世界史の世界の話し。

かつての英国が、ノルマンディー公ウイリアム(フランス語を使うフランス系の王)のノルマン朝によるノルマン・コンクエスト(フランス系の国王による、今でいうイングランドの征服)によって、フランス文化に支配される形になったことによるものですね。

そのあたりの話しはさておくとして、今現在の社会通念的な意味で「グルメ」を理解するなら、食全般に対して「より良いもの」を求める姿勢全般みたいな、ポジティブなニュアンスがありますが、その一方で、ところによってはあまりいい意味で使われないなんて場合もあったりします。

「金に任せた徒な消費」みたいなイメージが先行してしまう場合、「グルメ」って言葉でその態様を揶揄することになるからですね。

そんな面を嫌悪する部分もあってか、歴史小説作家としてのほか、食通としても一寡言持っていることで有名な池波正太郎先生が「グルメ」を語る場合、割と「お金」的な部分や「無駄な豪勢」といった言説の一切が対象外となります。

金額的なことには原則触れられず、そこに「豪勢」がある場合はなんらかの意味を持つ、といった具合ですね。むしろ質素さの中に美や旨さを求めていくという、侘び寂びの追及のような語り口調があって、作中でも「旨いものは自身が理想とする生活環境から出てくる」みたいな論が推されています。

味そのものが良い(そこは譲れない理想と共にある)のは当然として、「粋(食にまつわる美意識)」を大事にすることでも食を楽しもうという論です。

エッセイの前半パートを占める「味の歳時記」では、四季折々の「うまいもの」が、その「うまいもの」の周辺風景と共に紹介されるのですが、ここがまた「単なる食」を超えている感じで、その時その時の風景を鮮やかに引き立てることに一役買っています。

日常生活、あるいは旅行中の一コマと共にある「食」を、自分の毎日に華を添える要素として少しでも良いものとしていこう(少しでも食を楽しもう)、といった筆致と共に語られるのですが、食を介した気高さ云々というよりは、もっと単純に「旨いもの」が好きなんです、といった感じです。

キャベツときゅうりの塩漬けだったり、ハマグリだったり、鮎だったり、ウナギだったり、茄子だったり白瓜だったりトマトだったり、あるいはただのかき氷だったり。

中には、今となっては高級食材になってしまったなんてものもありますし、作中に出てくる料理屋さんを検索してみるとかなりお高いお店だったりといった部分もあるにはあるのですが、「かつての下町の日常風景」「かつての地方のあたりまえ」、そういった切り口から「グルメ」が語られます

後半パートで語られるのは、パリへの旅行時のエピソードです。フランスでは日本食を食べたいとは特に思わなかった、その土地に伝統文化として根付いたフランス料理を堪能し、現在の街並みから文化・歴史を味わう旅の時間に至福を感じたといった話しが展開されます。

郷に入っては郷に従う、その国の空気を嗜むことがグルメに通ずるみたいな価値観ですが、東京の下町に据えた軸足があるので、その軸足を基準とすることで、どこにいても「旨いもの」を「旨いもの」だと、自然に、自分の感覚で理解できるんですね。

フランスの都心部・田舎部それぞれの描写の妙にしても、とても分かりやすく伝わってくる部分がありますが、総じて、食は文化と共にあってしかるべきものなのだということが説得力を持って伝わってくるというような要素も持った本です。