【まんがレビュー】バイリンガル版「君の名は」

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新海誠/琴音らんまる『君の名は バイリンガル版』(2018年、KADOKAWA)

映画版との異同

絵柄やストーリーはそのままで、瀧や三葉たちが英語を話すという「バイリンガル版」です。

コマに入るセリフが英語で、日本語は全てコマの外に表記されるという形で日本語訳もきちんとついているので、英語と同時に日本語訳を拾うことができます。

また、中身についても映画版からの補足があります。

たとえば、瀧には「次の人生では田舎の女子に生まれ変わりたい」とかその手の願望は特になかった記憶があるのですが、三葉の方には「次の人生では都会のイケメン男子に生まれ変わりたい」願望が強烈にありました。

そのあたり、三葉が何で都会のイケメン男子になりたいと思ったのかというあたりが冒頭で丁寧に説明された上で、まずは「三葉になった瀧」につながれます。

映画版だと「てっしー」「さやちん」相手の三葉の語りは入らず、ナレーション後に即三葉の家の朝食シーン(三葉に入れ替わった瀧が登場するシーン)から始まったような気がするのですが、ああなるほどと、改めて納得する部分でもあったりしました。

ひょっとするとそういう描写があったことを忘れているだけなのかもしれませんが、映画版(テレビ放映と併せると数回以上見ているのですが)で見た印象がないようなシーンが挿入されていたように思えたんですね。

この傾向は最終章でも顕著だったりします。

ザッピング的に話が繋がれた先で、あれよあれよという間に最後の坂道まで話しが進んでしまう映画版に対して、バイリンガル版では彗星衝突後の糸守と、その後の三葉が割ときちんと描かれています。

エピローグは、全てが終わった後、生き延びた三葉の「朝目が覚めると泣いていることがある」というセリフからはじまります。

原作でも、瀧と三葉は彗星衝突後、二人ともお互いのことが完全に記憶から抜け落ちたままで「自分の心の中の、何か欠けたもの」を求めるかのようにして生きる日々を過ごすわけですが、この部分の補足も映画版では「あったような、なかったような」という感じに見えてきます。

三葉の大学合格や大学生活については、ひょっとするとサブリミナル的に含まれていたのかもわかりませんが、映画ではいきなりOLで登場したという印象があるんですよ。

なので、ここもやはりより丁寧に描かれていく三葉サイドの話しの中に、映画版でもおなじみ、瀧の就活風景等々が挟まれる形で進行し、何度見ても感動する最後の坂道シーンに至ります。

 

バイリンガル版であること

あとは、本作最大の個性である、バイリンガル版であるという点について。

そもそもメインで使われている言葉が英語なので、描かれる世界は同じなのですが、どこか別の世界線の話しに見えたりもします。

セリフを丁寧に追っていくことで、色々と新たに思うところが出てくることが期待できるわけです。

話しの内容はわかっているし、絵柄にしてもはっきり瀧だ、三葉だとわかるのですが、使われている言葉の違いによって雰囲気が変わっていることが伝わってきます。

前半は、とにかく英語で進む「君の名は」の世界が新鮮です。

とにかく話しがサクサクわかりやすく進んでいく感じに見えるので、特に映画版を何度も見たような場合は、心地よく読めるのではないでしょうか、という気がするんですね。

ただし、これがところによって逆効果になってしまうように感じた部分もあるにはありました。

例えば、三葉が東京まで瀧に会いに行ったシーンで、電車の中で瀧に密着した三葉は「覚えて・・・ない?」と瀧に話しかけるわけですが、英語版だと”Don’t you remember me?”と、滅茶滅茶シンプルに表現されています。

もちろん、英語を母国語としている人たちからしたらまた違った印象を持つことになるのかもしれませんが、日本語版の三葉のセリフが持つこのどこかもやっとした感じ、伝えたいことの核心部分をオブラートに包みつつ一番肝心な部分に切り込んでくる感じの表現って、同程度の字数の英語だと普通に表現しようがないようにも思えてくるんですよね。

単純に「覚えているかどうか」というよりは、そもそもそことはどこか別の線から英訳セリフを考えることで、より正確にこのシーンを描写できるんじゃないでしょうかというようなセリフですか。

改めてですけど、日本語って難解な言葉といえば難解な言葉なのかもわからないですよね。

あとは、いよいよ「彗星が落ちる前のシーン」を前にして、彗星が落ちた後の湖の周囲で瀧と三葉がぐるぐる走って回りながらようやく会えたと、三葉が半泣きになって喜んだシーン。

瀧が「お前に会いに来たんだ」と三葉に言うわけですが、それが英語版のセリフだと単に”I came to see you”と、まあそうとしか訳しようがないところかもしれませんが笑、まさに映画のあのシーンが目に浮かぶ前者に対して、どこかオリジナリティが薄まった普通のセリフに見えてしまう後者という、そんなところもあるにはありました。

やっぱり言外の「何か」を伝える言葉としては日本語って相当長けた部分を持っているのかな、なんてしみじみ思ってしまったり。

そうかと思うと、同じその「湖の周りをぐるぐる回って瀧と三葉が会えた」シーンでも、三葉が消えてしまう直前の「(目が覚めてもお互い忘れないように)名前書いとこうぜ」というセリフに対しては真逆の事を思わされたりもしました。

ここは声優さんの名演もあってか、日本語版のセリフが中々強烈にかっこよかった印象があるのですが、英語版だと”Let’s write our names down”と訳されています。

日本語版だと「名前書いとこうぜ」というだけで全てを伝えきって余りあるようなセリフだったはずなのですが、英語版で”our names”と「誰の名前を書くのか」をきちんと表現することによって、より感動が深くなる(?)ように感じました。

「確かに、その場に自分たちは存在しているのだ」という、この場面では一番大事なことであるはずの事実を、セリフが追認してくれるように感じるからですね。

だったら日本語のセリフに「俺たちの」あるいは三葉のセリフとして「私たちの」を入れればいいのかというと、そこはそういう話しでもないように思えたりするんですよ。

そうすると逆にクドくなる、手垢の付いたありきたりのセリフになる、だから限界まで削って主語を抜いた上で「名前書いとこうぜ」とすることで名セリフになったはずのものが、英語版になった時にさらっと主語を含めることによって、日本語版のセリフのカッコよさをさらっと超えてくるようにも感じるというような。

等々と、色々思わされることはあったのですが、かつて「君の名は」にハマった人であれば、今さらですがかなりお勧めです。

というか、次回作は彗星衝突後、都心で再会するまでの瀧と三葉の物語でもいいんじゃないかななんて、ちょっと思いました。

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