ノンフィクション小説(書評)

【書評/歴史小説】『破船』

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吉村昭『破船』(新潮文庫、1985年)

概要

ジャンル 準ノンフィクション小説
テーマ 東北の寒村を舞台とした、天然痘のアウトブレイク

あらすじ/感想

フィクション小説なのですが、恐らく近世以前の村には似たような話しがあったのだろうというフィクション小説で、世の中がどんな状態にあるときに読むかによって、恐らくは評価がまるで違ってくる小説です。

見所はおよそ2点に絞られます。

1点目は(作中約3年間に渡って描写がなされる)平常時の村の姿で、2点目は「疫病」が持ち込まれたことによって村が壊滅状態になってしまうラストにつながる流れですが、問題は、平常時においても「闇」を抱えた村が描かれているという点にあります。

このことから、ラストにつながる流れをいく通りかに解釈することができる、そもそも平時の村のあり方そのものが議論の対象となり得るという含みが生じるわけです。

「疫病=天然痘のアウトブレイク」という災厄を呼び込んだことが単なるアンラッキーで済むのかどうか、済ませていいのかどうか。

「単なる不運と捉えるだけで済む」と考える場合は平時の村の姿をどう肯定するのか、逆に「この不運は起こるべくして起こった」云々と考える場合は、平時の正しいあり方をどう規定することによって自説に説得力を持たせるのか、そんな問題意識が読後の読者に問われることになります。

ちなみに天然痘が村を壊滅の危機に陥らせてしまうのは、物語の最終盤の話しです。

一気呵成に村が地獄絵図と化してしまう様子に対して、さらにそこから一気に物語が畳まれてしまうエンドに対して「一体この小説はなんだったんだろう」なんて読後感と共に終わっていく可能性も考えられなくもないのですが、物語全体の7/8に該当する部分では、東北の寒村の困窮ぶりが、村が抱えた闇とともに淡々と描写されます。

村人たちは貧しいながらもギリギリのところで身を寄せ合って生きていくのですが、そこには自然濃いつながりができます。

今この瞬間に新たに各々の意思で始まったのだというような現代的な(?)絆ではなく、本州北部の最果ての地にあるごくごく小さい漁村での話、それも先祖代々続いてきて、今後も変わることはないだろうといった、ものすごく濃い世界内部の繋がりが作りあげる連帯感の話なので、ある意味「絆」という言葉が持つ原理的な側面を見せられるような雰囲気があります。

逃げたくても逃げられない、解消したくてもその手立てがない、しかしそもそもそんなことは考えもしないといったつながりですね。

そんな絆が作り上げたコミュニティで共有された秘密とは、村人たちが「お船様」と呼ぶ、難破船からの積荷収奪でした。

村をあげてのこの行為は、「海が荒れている冬の日にあえて浜辺で火を出すことによって船を浜に誘き寄せ、座礁を誘発するためだ」という真意を持った冬の浜辺での塩焼き(製塩)や、「お船様」の到来を村をあげて祈祷する行為がそれぞれ重要な年中行事に含まれるなど、村人の経済活動を裏から支えるものとなっていました。

「お船様」は村の存続に必須の「恵み」であり、村外不出の秘事だったわけです。

自らの頭の先に付いたエスカと呼ばれる疑似餌で餌をおびき寄せ、寄ってきた生物をバクっといってしまう深海魚・チョウチンアンコウもどきの行為で不法に「恵み」を得に行き、実際に得ることができた「恵み」は村人たちで公平に分配するという行為。

これが、最果ての地にある村民たちを生きながらえさせてきた「最高機密」でした。

悪い行為だとはわかっていながら、それを無下には否定しきれない含みを感じなくもない、食物連鎖のピラミッドに類似の何かを見せられているような気分にもなってくるのですが、作中三度目の冬に、やがて村の運命を一変させることになる、二度目の「お船様」が到来します。

いつもと同じ形を取って現れたはずの「お船様」は、実は伝染病に感染した死者が乗せられた、死を誘発する船だったんですね。

「作中2度目のお船様」までで物語は既に7/8が終わっているのですが、最終章に入って、エンドに続く阿鼻叫喚の世界がゆるやかに始まり、やがて嵐が去っていくと、悲惨な余韻を残したまま、言葉を変えると多くの課題を提起したままで『破船』は幕を閉じます。

惨禍の余韻冷めやらぬうちに訪れる「多大な犠牲と共に病魔は去った、ではこの先どうする?」という終わり方は、増幅する生々しさと共に多くを訴えてきますが、疫病そのものが持つ深刻さと同時に、疫病がもたらされた社会そのものへも警鐘を与えていると受け取れるものです。

この場合の警鐘は特に、今の「武漢肺炎パニック」に対してですね。

例えばの話として、昭和の世(バブル前夜)に出版された当時のことを考えると、『破船』の世界と自分たちの現実を、普通に切り離して考えることもできたでのではないかと思われます。

ともすると『破船』は良くも悪くも「かつての日本」を描いた物語の世界の出来事で、自分たちの日常と等しいものではないんですよなどと捉えられていたのかもしれません。奥付を見ると、新たに増刷がかかったのが平成24年(2012年)、つまり東日本大震災の翌年らしいので、なおのことそんな空気が察せられるような気分になります。

日本沈没」を書いた小松左京さん然り、『破船』他の吉村昭さん然り。フィクションを単にフィクションとして(要はただ一流のエンタメを提供しようとして)書いたわけではなく、一抹の望みを持ちつつも、このままではいつか手痛い目に合うときが来るだろうという部分に相当な危機感を持ち、そこに警鐘を鳴らそうと考えていたのかもしれませんね。