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【開港都市・長崎の風景】大浦天主堂(路面電車大浦天主堂駅下車、グラバー通り沿い)
大浦天主堂へ
大浦天主堂と二十六聖人、信徒発見
about 大浦天主堂
大浦天主堂(公式サイト)は、日本社会が幕末の動乱期にあった1864年(元治元年)に竣工した、現存する日本最古のカトリック教会です。
現在、天主堂(建物)とその境内は文化庁によって国宝に指定され、施設を含む一帯は”長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産”の一部として世界遺産に認定されています。
参考:文化庁公式サイトデータベース “大浦天主堂“”大浦天主堂境内“、文化庁・日本の世界遺産一覧 “長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産“、長崎県公式サイト “長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産”
二十六聖人と大浦天主堂
天主堂は、1597年=慶長元年、豊臣秀吉の禁教政策の一環として磔刑に処された26人の聖職者(日本二十六聖人)、およびキリスト教信者に捧げられるために作られました。
26人の処刑は1587年に発された”伴天連追放令”に始まる一連の禁教政策の最終的な措置で、スペイン船”サン・フェリペ号”乗員の舌禍事件がきっかけになったと言われていますが、この翌年秀吉は没し、世は秀吉在りし日の豊臣政権重臣であった五大老・五奉行を中心とした”天下分け目の戦い”へと向かいます。
ということで、開国間もない日本に作られた、”江戸幕府前”の時代に思いを馳せている教会が大浦天主堂です。
路面電車の大浦天主堂駅傍から始まるグラバー通りをまっすぐ上っていった時、その丁度突き当りにあたる地に作られていますが、教会は前記二十六聖人の殉教の地(JR長崎駅の傍に位置しています)である”日本二十六聖人記念館”(公式サイト)方面を向いています。
“大浦四番崩れ”から信教の自由容認へ
献堂理由や建築の趣向には日欧の近代と近世の交錯が見え隠れしますが、丁度この教会が作られた翌年(1865年)には、長崎が”小ローマ”と称えられていた16世紀の頃からの信者(潜伏キリシタン=隠れキリシタン)が発見されたという偶然も重なったことから、当の信者たちにとっては、幕末の元治年間は中々ドラマチックな出来事が続く期間となったようです。
特に潜伏キリシタンの発見については、信者たちには”奇跡”と捉えられた衝撃を与えたようで、現在の教会周辺にもその影を色濃く残しています。
とはいえ、時は未だキリスト教禁教が社会常識となっていた江戸の世だったということで、信教の自由が保障されるに至るにはさらに少々の時間を要すのですが、その間不運にも信者は”浦上四番崩れ(崩れ=キリシタン摘発)”と呼ばれる苛烈な弾圧を経験します(1867年7月~1873年)。
“四番”といわれるように、幕末の浦上では四度のキリシタン摘発があったようですが、弾圧は、最後に最大のものが控えていたんですね(3394人が流罪、うち600人以上が死亡)。
そしてこの”四番崩れ”のほぼ直後、江戸幕府による統治の柱の一つであった禁教令は効力を失い、その約20年後(1889年=明治22年)には信教の自由は条件付きで憲法に編入されました。
良くも悪くも”一寸先は闇”といった時代を経て、以降は日本社会にもカトリック・プロテスタントを問わず同様に信教が容認される世が到来することになるのですが、余談として、開国後初のカトリック教会としては、現在みなとみらい線の元町中華街駅出口傍に、初代カトリック山手教会=”横浜天主堂跡“の碑が残されています(大浦天主堂竣工の2年前、1862年に竣工しました)。
そのように、長崎以外の開港地でも、前記した横浜をはじめ、函館・神戸・新潟等国内の各開港地でもそれぞれの地に”初のカトリック教会”が竣工、あるいは教会の活動が開始されたほか、プロテスタント側の活動も活発化します(参考:横浜山手と女子校)。
大浦天主堂へ
グラバー坂を上っていくと、左右、および教会に向かって右斜め後ろ方向に伸びた道という四差路の交差点に行き当たるのですが、その正面方向にそびえ立つのが”二十六聖人”に捧げられた天主堂です。
設立に関する事情は教会の入り口手前にて説明され、付近には、
幕末の”信徒発見”についても言及する碑文が置かれています。
“信徒発見”の様子が描かれた大きな記念碑の置かれた一帯は広いスペースとなっていて、
向かって右側には”信徒発見”に立ち会ったプティジャン司教の像が置かれています。中央に据え置かれた胸像は、1981年に初来日し、その際には長崎を訪れた第264代ローマ教皇、ヨハネ・パウロ二世(カトリック中央評議会 “ヨハネ・パウロ二世“)のものです。
教会の正面中央に置かれている聖母像は、”信徒発見”の翌年、発見の記念としてその場に立ち会ったプティジャン神父が母国フランスに注文したもので、現在も”日本之聖母”としてこの位置に据え置かれています。
“聖母”のすぐ横からは、眼下にグラバー坂や長崎の港が望めます。
旧羅典神学校/旧長崎大司教館
大浦天主堂のすぐ隣には、かつてカトリックの神学校として使われていた旧羅典神学校の建物と、同じくかつてカトリックの司祭館として使われていた、旧長崎大司教館が今も残されています。
旧大司教館は、長らく司祭館として使われていた建物の老朽化に伴って建て替えられたもので、新築後わずかな期間”大司教館”と呼ばれていたという経緯があるようですが、建物名に付された”司祭”と”大司教”の違いは、それぞれの役割分担の他、教会が対象とする教区(管轄区域)の違いによっています。
まず司教と大司教の違いですが、教区を任されているのが司教、大教区を任されているのが大司教で、建物名については司教の住まい・執務の場が司教館、大司教の住まい・執務の場が大司教館です(カトリック中央評議会 “教区とは何ですか?“、”教義と組織“、”日本のカトリック教会の教区“)。
現在、日本国内には3つの大教区(東京、大阪、長崎)と13の教区がありますが、長崎の大司教館はカトリック浦上天主堂(公式サイト)の傍に位置しています。
また、司祭と司教の違いですが、”主に宣教活動や信徒の世話”が任務として与えられているのが司祭(=神父)である一方、司教は”イエスの十二使徒の後継者”として、任された地域=教区のすべての教会活動に責任を負います(カトリック中央評議会 “神父と司教の違いは何ですか?“)。
旧羅典神学校と旧長崎大司教館二つの建物は、現在は大浦天主堂キリシタン博物館として内部が見学可能となっていますが、旧羅典神学校は1972年に国の重要文化財に、旧長崎大司教館は2011年に長崎県の有形文化財に、それぞれ指定されています(大浦天主堂キリシタン博物館公式サイト)。