街歩きと社会

【街歩きと日本史】長谷寺と古代の日本

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【街歩きと日本史】長谷寺と古代の日本

国難と奈良時代

鎌倉の地に長谷寺が開かれた奈良時代の日本は、貴族の反乱が相次いだ上、疫病も大流行し、さらには続日本紀によると大地震も発生しているようで、日本史上でも有数の混乱期であった7世紀に続き、あらゆる方位から相次ぐ国難に見舞われていました。

続日本紀が伝える大地震とは、734年に発生したといわれる畿内七道地震のことですが、畿内七道とはいわゆる五畿七道のことで、畿内=五畿は京都の周辺五か国を、七道とは東北~九州の地方(と、そこに通された道)を指します。

五畿 山城・大和・河内・和泉・摂津の五国 現在の京都・奈良・大阪・兵庫四府県
七道 東海道、東山道(※)、北陸道、山陰道、山陽道、南海道(※)、西海道(※) 東山道は中部・東北、南海道は四国、西海道は九州

 

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畿内七道=五畿七道、つまり古代の律令制下における北海道以外の日本全域のことで、今風に言えば「首都を中心とした日本全国地震」ということになるでしょう。

そもそもネーミングからしてえげつない「畿内七道地震」、当時の政治の中心だった平城京(現・奈良県)一帯にももちろん甚大な被害をもたらしたようですが、この大地震が結果的に大きな混乱の前兆となりました。

この場合の「大きな混乱」のそもそもの遠因は、藤原氏の誕生にあります。というのも、後の藤原氏繁栄のスタートになっているともいえる世代が、大地震が発生し、かつ鎮護国家が政策で具体化された「聖武天皇時代」の混乱の中心になっているためです。

 

藤原氏の誕生

こと政争的な面に目を向けた場合、「大化の改新」は蘇我氏を滅亡させると同時に、結果的には後に栄華を極めることとなる藤原氏(藤原北家)を生み出した改革でもありました。

大化の改新の当事者であった中臣鎌足は、共に大化の改新を実行した中大兄皇子=天智天皇から(自身の晩年に)藤原の姓を下賜され、藤原氏の始祖・藤原鎌足となりますが、その鎌足の次男であった藤原不比等が、後の藤原氏繁栄のスタート地点を作ります

一説によると鎌足ではなく天智天皇の(愛人の)子供であったとも言われている不比等は、政界の中心で活躍した自身も、大宝律令(律=刑法、令=行政法という、当時の公法)の編纂に関わるなど大きな実績を持っているのですが、その上で、後の繁栄につながる礎を築いた四人の子供を残します。

始祖・鎌足にとっては孫にあたる不比等の四人の息子たち(武智麻呂=むちまろ、房前=ふささき、宇合=うまかい、麻呂=まろ)は藤原四兄弟といわれ、後に政治や文化の中心となっていく、藤原四家(南家、式家、北家、京家)の始祖にあたります。

藤原四家と四兄弟の中で、特筆すべきはやはり北家です。

南家 式家 北家:後の摂関家・五摂家 京家
始祖・武智麻呂 始祖・宇合 始祖・房前 始祖・麻呂

 

房前を祖とする藤原北家は、政治的には終始地味だった京家や、混乱の中心となり、かつ結果的には失墜していく南家や式家に対して相対的に台頭すると、後の平安時代には摂関家(摂政・関白を輩出する家柄の意)と呼ばれるに至り、道長・頼通の時代には全盛期を迎えました。

更に時は流れて鎌倉時代以降となると、武家政権が統治する日本において、藤原北家の末裔は五摂家(近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家)として、公家の家格の頂点に君臨していく事となります。

聖武天皇の時代は、北家が突き抜ける前夜の時代、四家の始祖であった藤原四兄弟の時代に重なりました。

 

大地震・疫病と相次ぐ貴族の反乱

藤原四兄弟は、729年、聖武天皇の皇后選び(慣例を破り、皇族以外から皇后=光明子を選出)が原因となって発生した政争の延長で長屋王の変を起こし(「非皇族」である、藤原氏出身の光明子選出に反対だった長屋王を謀殺し)た後、一旦は政権を掌握するのですが、737年になんと全員が天然痘で死去します。

冒頭で記した、畿内七道地震の3年後のことでした。

この時代はまた、疫病=天然痘(現在は根絶)が大流行した時代でもあったのですが、そんな時代に”四兄弟”が没した後の権力の空白に収まったのは、皇族出身の橘諸兄です。

「皇族出身の」という表現が微妙ですが、橘諸兄はお父さんが皇族(美努王=みのおう、あるいは三野王)、お母さんが非皇族( 県犬養=あがたいぬかい 三千代=みちよ)なので、元の身分は皇族(葛城王=かずらぎのみこ)なのですが、何か理由があって自らその身分を放棄し、一官僚として生きていくことを選んだため(ということだったのでしょう)、「皇族出身の」となるわけです。

簡単にいえば、葛城王が臣籍降下し、橘諸兄となったということですね。

「四兄弟」の死後、藤原四家(=藤原氏)の台頭を抑える形での政権掌握が期待された橘諸兄は、玄昉・吉備真備という”唐帰り”の二人の留学生と共に、聖武天皇に重用される形で実権を握ることになります。

橘諸兄登用に込められた期待通り、藤原四兄弟の興した四家の後継者は一時権力中枢から遠ざかることになるのですが、このことを不満に思った藤原式家・藤原広嗣が、吉備真備・玄昉追放による橘諸兄政権の打倒を目指し、現在の北九州地域で反乱を起こします(藤原広嗣の乱)。

乱は結局鎮圧され、広嗣は刑死するのですが(藤原式家自体はしばしの停滞の後、復調します)、大地震の発生、長屋王の変、藤原四兄弟の台頭と死、天然痘の大流行、さらにはその後の藤原広嗣の乱発生と、聖武天皇の時代は相当な動乱期にあたりました。

聖武天皇の「前」の時代、7世紀の動乱にしてもそれ以上にすさまじく、さらには聖武天皇の退位後にも政争は延々続いていく事になるのですが、時の世を治めていた聖武天皇にしても動乱の渦中にあっての即位であり、その心中にしても察するに余りあるものがあったことでしょう。

そんな一連の動乱が、聖武天皇をして「鎮護国家」の具体化へと走らせることとなりました。

 

鎮護国家と長谷観音、二つの「長谷寺」の創建

激動の時代を治める策として、相次ぐ遷都と共に聖武天皇がとった政策は、篤く信仰していた仏教の思想を柱とした「鎮護国家」の政策化でした。

長谷寺の創建期は、国分寺建立の詔(741年)が出される5年前、聖武天皇の鎮護国家の思想がまさに全国展開をはじめようとしていた直前期に符合しますが、長谷寺の創建を考えるにあたっては、鎌倉の他奈良にも長谷寺があるということが一つのポイントとなります。

鎌倉の長谷寺が736年に開山されていることに対し、奈良の長谷寺はその約10年ほど前の727年に開山されていますが、奈良の長谷寺にも鎌倉の長谷寺にも、共に「長谷観音」が関連し、同じ徳道上人が開山しているという伝承が残っています。

鎌倉・奈良共に、(少なくとも伝承の上では)長谷寺は同じ徳道上人が作った長谷観音が縁起となって開山しているわけですが、時は女帝・元正天皇(第45代・聖武天皇の先代)の在位時、前記した「藤原四兄弟」の藤原北家開祖・藤原房前存命中の話しです。

奈良の長谷寺開山の数年程度前の話しだと思われますが、当時の大和国(現・奈良県)にあった百年越しの因果を持つ大木(近隣国から引いてこられた流木)から、観音様を作ろうと考えた僧がいました。

この僧こそが、ほかならぬ「二つの長谷寺を開山した」徳道上人です。

徳道上人は、元正天皇と藤原房前の力を借り、この大木から二体の観音像を作ると、一体を奈良の長谷寺へ安置し、もう一体は衆生救済を願って海へと流した、この海に流した一体が「736年に流着した」長谷観音だったというのが、鎌倉の長谷寺に残る言い伝えです。

気になる点としては、鎌倉の長谷寺の公式サイトをはじめ、多くの本には「開山の縁起となった観音様がその年(736年)に流着した」としか書かれていない点、奈良の長谷寺の公式サイトには奈良の長谷観音についてのみが触れられている点ですが、「(正しいとは言い切れないが)一説にはそういうとらえ方がある」「そういう言い伝えがあるにはあった」といったところなのかもしれません。

以下では、とりあえず言い伝えを真として続けますね。

一体の流木から二体の観音様を同時に作り、うち一体をまさに作った傍から海へ流したのか、それとも奈良の長谷観音と鎌倉に漂着した長谷観音の制作時期にはタイムラグがあったのか、その辺はよくわかりませんが、結果的に奈良に長谷観音が安置されたその約10年後、長井浦(現在の横須賀市の海岸線。丁度陸上自衛隊の武山駐屯地等がある、小田和湾の辺りです)に漂着した長谷観音が、現在の長谷寺で祀られることとなりました。

それが736年の話です。

奈良の長谷観音が完成し、奈良に長谷寺が開山した年(727年)、既に元正天皇は退位し聖武天皇の時代となっていたわけですが、当時はまた、第43代・元明天皇、第44代・元正天皇、さらには第46代・孝謙天皇と、多くの女帝を持った時代でもありました。

初の女帝である第33代の推古天皇以来、第35代の皇極天皇、第37代の斉明天皇、第41代の持統天皇、さらに前記した第43代元明天皇、第44代元正天皇、第46代孝謙天皇の在位を経て、第48代の称徳天皇(恵美押勝の乱=藤原仲麻呂の乱の帰結として、恵美押勝の斬首後、孝謙天皇が重祚=再び即位)と、突出して女帝が多いのも激動の7~8世紀の皇室の特徴です(幼少期の聖武天皇の「ピンチヒッター」として即位した、第43代元明天皇の娘である第44代の元正天皇以外、全て男系の女性天皇です)。

称徳天皇(重祚した孝謙天皇)の次の女帝は江戸時代初期(17世紀前半)の明正天皇まで飛ぶことになるので、いかにこの時代の「女帝率」が突出していたかという話ですが、そんな時代の一人の僧によって、奈良と鎌倉二つの地に、同じ長谷観音を縁起とする「長谷寺」が作られました。

聖武天皇の時代に勅願所として始まり、かつ「流着した長谷観音」に縁起を持つというのが鎌倉の長谷寺のはじまりですが、少なからず時代の要請に合致した創建であり、かつ時の趨勢とも不思議な縁を持ったお寺であった、とはいえそうですね。