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長谷寺と古代の日本(奈良時代、藤原四子、長谷寺創建)

鎌倉・湘南街歩き

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長谷寺と古代の日本(奈良時代、藤原四子、長谷寺創建)

国難と奈良時代

鎌倉の地に長谷寺公式サイト)が開かれたのは、奈良時代(初代観音堂の創建が736年=天平8年です)のことです。

当時の日本は、貴族の反乱が相次いだ上、疫病も大流行し、さらには”続日本紀”によると大地震も発生しているようで、日本史上でも有数の混乱期であった7世紀に続き、あらゆる方位から相次ぐ国難に見舞われていました。

“続日本紀”は797年に成立した当時の日本の正史=公式の歴史書で、日本書紀を含む”六国史”の一つに数えられています。

ちなみに”続日本紀”が伝える大地震とは、734年に発生したといわれる畿内七道地震のことですが、その約150年後(887年)には”南海トラフ”(気象庁 “南海トラフ地震について“)を震源とする仁和地震(徳島地方気象台南海地震の県内被害記録“等)も発生しています。

“畿内七道地震”のいう畿内七道とはいわゆる五畿七道のことで、畿内=五畿は現在の大阪・奈良を中心とする五か国を、七道とは東北~九州の地方(と、そこに通された道)を指します。

当時の地域 現在の地域
五畿 山城・大和・河内・和泉・摂津の五国 京都・奈良・大阪・兵庫四府県
七道 東海道、東山道(※)、北陸道、山陰道、山陽道、南海道(※)、西海道(※) 東海道、山陰地方、山陽地方の他、東山道は中部・東北地方、南海道は四国、西海道は九州

畿内七道=五畿七道とは、古代の律令制下における北海道以外の日本全域のことで、今風に言えば”首都を中心とした日本全国地震”です。

この地震は当時の政治の中心だった平城京(現在の奈良県奈良市です。国土交通省:国立平城京跡歴史公園平城京とは“)一帯にも甚大な被害をもたらし、かつ大きな混乱の前兆ともなりました。

 

藤原氏の誕生

古代の外交と内政

先ず初めに国内の動きありき、そこに東アジアの国際情勢が加味されることによって、当時の国政の方針は定まっていました。

これは、当時の先進国であった隋や唐が学ぶに足るものを持っていると判断できるのであればそれを積極的に取り入れる、ただし東アジアの国際秩序自体が安定していない、あるいは渡航先の国が学ぶに足るものを持っていないと判断できるのであればその限りではない(唐の衰退を理由とする遣唐使の中止が、これにあたります)という、合理的な判断に基づいた外交を進めていたことによります。

大局的には、仏教や律令制等を受容したことによって訪れた”内政や文化の国際化”時代を経て、やがて海外からの影響を遮断する”国風文化“の時代へと繋がっていきますが、まずは政治も文化もどん欲に受け入れていくことを是とする時代が到来します。

南北朝文化隋・唐の政治制度・文化の影響を受けたのは飛鳥文化白鳳文化天平文化の時代で、およそ6世紀~9世紀に該当します。国風文化の繁栄期は、894年の遣唐使の中止以降栄えることとなった、特に後述する藤原北家=摂関家がリードした10世紀ですが、まずは”国風文化”の土台となる”国際化”時代の中で、やがて後の国内をリードする勢力=藤原氏(藤原北家)が生まれてくることになりました。

 

大化の改新と藤原四家

こと政争的な面に目を向けた場合、”乙巳の変”(645年)にはじまる大化の改新は、(聖徳太子=厩戸皇子らと尽力して一時代を築いた)蘇我馬子らを輩出した蘇我氏を滅亡させると同時に、後に栄華を極めることとなる藤原氏(遠因として藤原北家)を生み出した改革となりました。

大化の改新の当事者であった中臣鎌足は、共に大化の改新を実行した中大兄皇子=天智天皇から、自身の晩年に藤原の姓を下賜され、藤原氏の始祖・藤原鎌足となります。

その鎌足の次男であった藤原不比等が、後の藤原氏繁栄のスタート地点を作りました

一説によると藤原鎌足ではなく天智天皇の子供であったとも言われている藤原不比等は、大宝律令(律=刑法、令=行政法という、当時の公法です)の編纂に関わるなど、自身も大きな実績を持っているのですが、その上で後の藤原氏繁栄につながる礎を築いた四人の子供を残します。

始祖・鎌足にとっては孫にあたる不比等の四人の息子たち(武智麻呂=むちまろ、房前=ふささき、宇合=うまかい、麻呂=まろ)は藤原四兄弟といわれ、後に政治や文化の中心となっていく、藤原四家(南家、式家、北家、京家)の始祖にあたります。

 

藤原北家

家名 始祖 家名の由来他
南家 武智麻呂 家名は邸宅の位置に由来。
北家 房前 家名は邸宅の位置に由来。後の摂関家・五摂家。
式家 宇合 家名は宇合の官職”式部卿”に由来。
京家 麻呂 家名は麻呂の官職”左京職大夫”に由来。

藤原四家の中で、特筆すべきは北家です。

房前を祖とする藤原北家は、政治的には終始地味だった京家や、混乱の中心となり、結果的に失墜していく南家や式家に対して相対的に台頭すると、平安時代には摂関家(摂政・関白を輩出する家柄の意)と呼ばれるに至り、道長・頼通の時代に全盛期を迎えました。

この時代に隆盛を極めたのが、北家がリードした貴族文化=国風文化です。

更に時は流れて鎌倉時代以降となると、藤原北家の末裔は五摂家(近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家)として公家の家格の頂点に君臨しますが、鎌倉に長谷寺が作られた聖武天皇の時代は”北家”が突き抜ける前夜の時代で、四家の始祖であった藤原四兄弟の在りし日に重なりました。

 

大地震・疫病と相次ぐ貴族の反乱

長屋王の変と四兄弟の死

藤原四兄弟は、729年、聖武天皇の皇后選び(慣例を破って、皇族以外から皇后=光明子を選出したこと)が原因となって発生した争いの延長で、藤原氏出身の光明子選出に反対だった長屋王を自害に追い込みます(長屋王の変)。

“長屋王の変”の後、(四兄弟の父にあたる藤原不比等の死後、政界の中心となっていた)長屋王がいなくなったということで、四兄弟は一旦政権を掌握するのですが、737年になんと全員が天然痘で死去します。

“長屋王の変”の8年後、”畿内七道地震”の3年後のことでした。

 

聖武天皇と橘諸兄政権

この時代はまた、天然痘(現在は根絶した疫病です。参考:国立感染症研究所  “天然痘(痘そう)とは“)が大流行した時代でもあったのですが、”長屋王の変”と”四兄弟”没後の権力の空白には、皇族出身の橘諸兄が収まります。

橘諸兄はお父さんが皇族(美努王=みのおう、あるいは三野王)、お母さんが非皇族( 県犬養=あがたいぬかい 三千代=みちよ)で、本来の身分は皇族(葛城王=かずらぎのみこ)ですが、何か理由があって(ということなのでしょう)自らその身分を放棄し、一官僚として生きていくことを選んだために”皇族出身”となりました。

分かりやすく言えば、葛城王が臣籍降下して”橘諸兄”になったということですが、橘諸兄には、藤原四家の始祖である四兄弟の死後、藤原四家の台頭を抑えた政権掌握が期待されます。

玄昉・吉備真備という”唐帰り”の二人の留学生と共に、聖武天皇に重用される形で実権を握ると、登用に込められた期待通り、藤原四兄弟の興した四家の後継者は一時権力中枢から遠ざかることになるのですが、このことを不満に思った藤原式家・藤原広嗣が、吉備真備・玄昉追放による橘諸兄政権の打倒を目指し、現在の北九州地域で反乱を起こします(740年、藤原広嗣の乱)。

乱は結局鎮圧され、広嗣は刑死するのですが(藤原式家自体はしばしの停滞の後、復調します)、大地震の発生、長屋王の変、藤原四兄弟の台頭と死、天然痘の大流行、さらにはその後の藤原広嗣の乱発生と、聖武天皇の時代は相当な動乱期にあたりました。

 

二つの「長谷寺」の創建

鎮護国家の思想

聖武天皇の即位は動乱の渦中にあってのものあり、その心中にしても察するに余りあるものがありますが、一連の動乱は、聖武天皇をして”鎮護国家の思想”を政策化させる要因となりました。

鎮護国家の思想とは、仏教の教えによって国家の安定・平安を図って行こうという思想のことで、この思想が政策として具体化された時に、例えば国ごとの国分寺・国分尼寺の建立(741年、国分寺建立の詔)や大仏造立(743年、大仏=廬舎那仏造立の詔。752年には大仏の開眼供養が行われます)が発令され、実行されることとなりました。

 

二つの長谷寺の創建

鎌倉の長谷寺の創建(736年)は、国分寺建立の詔(741年)が出される5年前、鎮護国家の思想が政策化される直前期に符合しますが、鎌倉の他奈良にも”長谷寺”がある(大和国長谷寺公式サイト)ということが一つのポイントとなります。

鎌倉の長谷寺が736年に開山されていることに対し、奈良の長谷寺はその約10年ほど前の727年に開山されていますが、奈良の長谷寺にも鎌倉の長谷寺にも、共に”長谷観音”が関連し、同じ徳道上人が開山しているという伝承が残っています。

奈良の長谷寺開山の7~8年前、当時の大和国(現・奈良県)にあった百年越しの因果を持つ大木(近隣国から引いてこられた流木)から、観音様を作ろうと考えた僧がいました。

この僧こそが、二つの長谷寺を開山した徳道上人です。

徳道上人は、女帝・元正天皇(第45代・聖武天皇の先代)と藤原北家の始祖・藤原房前の力を借り、この大木から二体の観音像を作ると、一体を奈良の長谷寺へ安置し、もう一体は衆生救済を願って海へと流しました。

この海に流した一体が(736年に流着したといわれる)長谷観音だったというのが、鎌倉の長谷寺に残る言い伝えです。

気になる点としては、鎌倉の長谷寺の公式サイトには「開山の縁起となった観音様が736年に作られた」としか書かれていない点(公式サイトでは、736年に作られたとされるものは、現存の観音様とも異なるとされています)、奈良の長谷寺の公式サイトには奈良の長谷観音についてのみが触れられている点ですが、「正しいとは言い切れないが、一説にはそういうとらえ方がある」「そういう言い伝えがあるにはあった」といったところなのかもしれません。

仮に言い伝えを真と捉えるのであれば、として続けます。

一体の流木から二体の観音様を同時に作り、うち一体をまさに作った傍から海へ流したのか、それとも奈良の長谷観音と鎌倉に漂着した長谷観音の制作時期にはタイムラグがあったのか、そのあたりの事情はよくわかりませんが、結果的に奈良に長谷観音が安置されたその約10年後、長井浦(現在の横須賀市の海岸線。丁度陸上自衛隊の武山駐屯地等がある、小田和湾の辺りです)に漂着した長谷観音が、現在の長谷寺で祀られることとなりました。

それが、鎌倉の長谷寺が始まった736年の話です。

 

“長谷観音”と女帝の時代

奈良の長谷観音が完成し、奈良に長谷寺が開山した年(727年)は、元正天皇退位後の、聖武天皇の時代に該当しますが、当時はまた、第43代・元明天皇、第44代・元正天皇、さらには第46代・孝謙天皇と、多くの女帝を持った時代でもありました。

初の女帝である第33代の推古天皇以来、第35代の皇極天皇、第37代の斉明天皇、第41代の持統天皇、さらに前記した第43代元明天皇、第44代元正天皇、第46代孝謙天皇の在位を経て、第48代の称徳天皇(恵美押勝=藤原仲麻呂の乱後恵美押勝が斬首され、孝謙天皇が重祚=再び即位し、称徳天皇となります)と、突出して女帝が多いのも激動の7~8世紀の皇室の特徴です。

幼少期の聖武天皇の”ピンチヒッター”として即位した第44代の元正天皇(第43代元明天皇の娘)以外、全て男系の女性天皇です(ただし元正天皇の父は天武天皇の子である草壁皇子なので、”時の天皇陛下の子ではない”というだけで、男系の女性天皇には該当しています)。

称徳天皇(重祚した孝謙天皇)の次の女帝は江戸時代初期(17世紀前半)の明正天皇まで飛ぶことになるので、いかにこの時代の「女帝率」が突出していたかという話ですが、そんな時代の一人の僧によって、”長谷観音”を縁起とする二つの長谷寺が作られました。

聖武天皇の時代に勅願所として始まり、かつ流着した長谷観音に縁起を持つというのが鎌倉の長谷寺のはじまりですが、時代の要請に合致した創建であり、当時の時勢とも不思議な縁を持ったお寺であった、とはいえそうです。

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