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【街歩きと鎌倉史】長谷寺と古代の日本(鎮護国家の思想、徳道上人)

街歩きと鎌倉史

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【街歩きと鎌倉史】長谷寺と古代の日本(鎮護国家の思想、徳道上人)

 

二つの長谷寺の創建

鎌倉と奈良の長谷寺

鎌倉の地に長谷寺公式サイト)が開かれたのは奈良時代(初代観音堂の創建が736年=天平8年です)のことです。

鎌倉の長谷寺の創建は、時の聖武天皇によって国分寺建立の詔(741年)が出される5年前、鎮護国家の思想(後述)が政策化される直前期(ほぼ同時期)に符合しますが、この時代、鎌倉の他奈良でも”長谷寺”(大和国長谷寺公式サイト)が創建されています(参考:開山と創建(開基))。

鎌倉の長谷寺が736年に創建されていることに対し、奈良の長谷寺はその約10年ほど前の727年に創建されていますが、共に”鎮護国家”建設が本格化する直前期の話しであり、奈良の長谷寺にも鎌倉の長谷寺にも、共に”長谷観音”が関連し、同じ徳道上人が開山しているという伝承が残っています。

 

鎮護国家の思想と奈良時代

鎮護国家とは

鎮護国家の思想とは、仏教の教えによって国家の安定・平安を図って行こうとする思想のことです。

奈良時代に、時の第45代天皇・聖武天皇によって推進されました。

例えば国ごとの国分寺・国分尼寺の建立(741年、国分寺建立の詔)や東大寺の大仏造立(743年、大仏=廬舎那仏造立の詔)などは、”鎮護国家の思想”の具体化と共に(詔として)発令され、実行されていますが、時の日本のグランドデザインが鎮護国家の思想と共にあったということは、奈良時代の仏教が国家仏教として国家権力と結びつき、国家の保護下に置かれていたことを意味しています。

なぜ当時の社会で仏教がそこまで重視されるに至ったのかという点については、ひとつには当時が波乱の時代だったことにも理由があると考えられています。

 

後世への影響

“鎮護国家”が後世に与えた影響としては、仏教思想と日本の在来信仰との結びつきが神仏習合の動きを生み出したことや、そのような動きの中から世俗とは一線を画した形の仏教(奈良時代の国家仏教との比較から、平安仏教などと呼ばれます)が新たに台頭したという点を挙げることが出来ます。

前者(神仏習合)は奈良時代の”鎮護国家思想の政策化”に端を発する動き、後者(平安仏教の興り)は続く平安時代に向けて顕著となっていく動きです。

神仏習合の萌芽は仏教思想が社会に浸透していったことの現れであり、例えば平安仏教(天台宗、真言宗など)の興りにしても仏教思想と民間信仰の結びつきに端緒がありますが、”国家権力と仏教の強い結びつき”はまた、仏教と政治の腐敗を生じることにもつながりました。

この点、聖武天皇の娘である女帝・称徳天皇(重祚した孝謙天皇)の時代に僧侶・道鏡を通じて表面化した”政治と宗教の癒着問題”は、後の平安遷都の一因ともなるのですが、同時代のみならず、功罪両側面において後世に大きな影響を残したのが”聖武天皇の鎮護国家”だったといえるでしょう。

 

長谷寺と徳道上人

徳道上人

二つの長谷寺のはじまりについて、続けます。

奈良の長谷寺開山の7~8年前、当時の大和国(現・奈良県)にあった百年越しの因果を持つ大木(近隣国から引いてこられた流木)から、観音様を作ろうと考えた僧がいました。

この僧こそが、二つの長谷寺を開山したと伝えられる徳道上人です。

徳道上人は、女帝・元正天皇(聖武天皇の先代)と藤原北家の始祖・藤原房前の力を借り、この大木から二体の観音像を作ると、一体を奈良の長谷寺へ安置し、もう一体は衆生救済を願って海へと流しました。

この海に流した一体が(736年に流着したといわれる)長谷観音だったというのが、鎌倉の長谷寺に残る言い伝えです。

 

鎌倉の長谷寺のはじまり

気になる点としては、鎌倉の長谷寺の公式サイトには「開山の縁起となった観音様が736年に作られた」としか書かれていない点(公式サイトでは、736年に作られたとされるものは、現存の観音様とも異なるとされています)、奈良の長谷寺の公式サイトには奈良の長谷観音についてのみが触れられている点ですが、「正しいとは言い切れないが、一説にはそういうとらえ方がある」「そういう言い伝えがあるにはあった」といったところなのかもしれません。

徳道上人は一体の流木から二体の観音様を同時に作り、うち一体をまさに作った傍から海へ流したのか、それとも奈良の長谷観音と鎌倉に漂着した長谷観音の制作時期にはタイムラグがあったのか、そのあたりの事情はよくわかりませんが、結果的に奈良の長谷寺に長谷観音が安置されたその約10年後、長井浦(現在の横須賀市の海岸線。丁度陸上自衛隊の武山駐屯地等がある、小田和湾の辺りです)に漂着した長谷観音が、現在の長谷寺で祀られることとなりました。

それが鎌倉の長谷寺が始まった736年の話です、と伝えられています。

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