東京街歩きと”大御所時代”(徳川家斉と化政文化、江戸三大改革)

南関東/静岡・山梨
この記事は約8分で読めます。

大御所時代と幕末日本

大御所時代

江戸幕府11代将軍・徳川家斉

今をさかのぼること200年以上前。西暦1800年前後の江戸は、徳川全15代将軍の中でもダントツの最長である50年に渡って将軍を勤めた11代将軍徳川家斉の時代でした。

激動前夜、嵐の前の静けさの中で、江戸の庶民文化が円熟期を迎えた時代ですね。

この時代を、“将軍・家斉”を軸としてみた場合。

  • 11代将軍に着任後、実権を握るまでの期間(1787年〜1793年)

という、”寛政の改革”でお馴染みの老中・松平定信が主導した時代を経て、

  • 松平定信が老中を辞した後の家斉の将軍在位期間(1793年~1837年)
  • “大御所”となった家斉の死によってその施政が終わるまでの期間(1837年~1841年)

という、家斉が実権を握った期間が到来します。

家斉の将軍在位期間はちょうど半世紀、これに対して歴代二位の在位期間を誇る8代将軍・徳川吉宗の在位期間が”29年(1716年~1745年)”です。

歴代でも”家斉の時代”がいかに突出して長かったかというあたりを推し量ることもできますが、他にも家斉に特異だった点として、将軍引退後も前将軍=大御所として、自身の死に至るまで4年ほど実権を握り続けた点が挙げられます。

全15代の将軍の中でも、開祖・家康以外の”大御所”は家斉のみです。

実際に家斉が”大御所”だった期間はわずか4年間なのですが、のちに大御所となる徳川家斉は約半世紀にわたって実権を握っていたと言うことで、“家斉が統治した時代”=大御所時代と呼ばれます。

寛政・天保の改革と大御所時代

将軍・家斉の大御所時代は、

  • 家斉の将軍就任直後に老中・松平定信によって進められた寛政の改革
  • 家斉の死後、老中・水野忠邦によって進められた天保の改革

という、二つの大きな改革に挟まれて存在します。

この時期のおよその特徴として、緩い”大御所”時代の前後に厳しい時代があったことが挙げられますが、時の狂歌が「白河の 清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と謳った寛政の改革時代の直後、庶民の本音を踏襲したかのような”家斉の時代”が到来することによって、江戸の町民文化は集大成の時、すなわち化政文化の時代を迎えました。

そして家斉の死後には、老中・水野忠邦の改革によって“家斉時代の精算”を迫られることになるんですね。

江戸後期の騒乱と、庶民文化の円熟

大御所時代の危機と繁栄

そもそも大御所時代の前後に大きな改革が必要とされた理由には、飢饉対策や、飢饉を理由とする打ちこわし対策等、天災の発生に理由を持つものも含まれていました。

田沼政治への反動、大御所時代の風紀引き締め、”小判鋳造”に伴うインフレ対策等々といった政治・経済・社会上の問題、さらには幕府財政の問題以外にも問題は山積していたのだと言うことで、例えば寛政の改革時の天明の飢饉対策天保の改革時の天保の飢饉対策、その双方に含まれた一揆・打ちこわし対策等々が深刻な問題として挙げられますが、この点については大御所時代にしても然り。

“どぜう”表記のきっかけとなった江戸三大大火の一つ、文化=丙寅の大火発生、江戸三大飢饉の一つに挙げられる天保の大飢饉発生、それに伴う一揆や打ちこわしの激増など、前後の時代に負けず劣らずの物騒なものが目白押しとなっている一面もあります。

ですが、決してただ悲壮感が漂うだけの時代にあらず。

その反面において、江戸時代全期間を通じても屈指と言える明るい話題(化政文化に代表される、庶民文化が花開いたこと)もまた、時代の特徴となりました。

大御所時代の庶民文化と教養熱

“大御所時代”の文化年間(1804年~1818年)と文政年間(1818年~1831年)には、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』がベストセラーとなり、歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』葛飾北斎の錦絵『富岳三十六景』が広く庶民の支持を受けるなど、江戸の町人文化がピークを迎え、庶民の街道旅行も盛期を迎えます(参考:国立国会図書館”錦絵でたのしむ江戸の名所“内”名所の成立“)。

今を遡ること200年近く前の話ですね。

衣食足りた庶民たちの間で広く教養が欲された時代でもあり、精神の自由を謳歌し、学問を奨励する空気も生まれます。

その結果、かつての姿から進化を遂げ、多彩なカリキュラムを持つに至った寺子屋のほか、私塾での各種専門教育、さらには洋学等も盛んとなって、ほどなく訪れる幕末の乱世に歴史的な偉人を多数輩出したベースが整えられていきました。

化政文化と時の金融政策

“化政文化”繁栄のきっかけの一つに、時の幕府が主導した金融政策があります。

松平定信の失脚後も寛政の改革路線の政策を継承し、”寛政の遺老”と呼ばれた老中・松平信明(のぶあきら)が自身の死去によってその座を退くと、その後をかつての”田沼意次派”老中・水野忠成(ただあきら)が引き継ぎ、”寛政の改革”期以来行き詰っていた財政難に対し、質を落とした小判を大量に鋳造するという手を打ちました。

現在の金融政策でいうところの”量的緩和”政策(貨幣を大量に発行し、市場に流通させる政策)にあたる、「お金が足りないなら作ればいい」という理屈に基づいた政策ですが、質を落とした小判を大量に鋳造することによって幕府財政の立て直しが図られたんですね。

原則として、市場に大量に小判が出回れば小判の価値レア度は下がるため、相対的に物価、すなわち「対小判のモノの値打ち」は上昇します。

小判の希少性が減少することによって、同じものを購入するにしても以前より多くの小判が必要になる、という理屈ですが、”大御所時代”の小判鋳造政策でもそのご多分に漏れず。

大量の小判が市場に流通した後、物価が上昇することとなりました。

“お金が市場に多く出回る”ことによってモノの値段が上がるのであれば、物価の上がり方如何では庶民の生活を苦しめることにつながりかねないのですが、他方で“お金が市場に多く出回る”状態は、経済活動を活性化させやすいという性格を持っています。

平たく言えば「懐に以前より多くのお金が入っていれば、その分財布の紐も緩くなるだろう」と言う理屈ですね。

例えば政策的にインフレ(=物価高)を誘導することが狙われた“インフレ・ターゲット政策”では、この効果を得ることが目的とされますが、物価上昇は本質的に”正・負どちらにも転び得る経済効果”と表裏一体の関係にあるものであって、その効果にしても毒にも薬にもなり得るものです。

モノの値段ばかりが上がりすぎてしまっては財布の紐も緩めようがない、要するに「物価が程よく上昇すること」が必須になってくるんですね。

この点、少なくとも大御所時代の小判鋳造政策では物価上昇が商品生産を刺激し、商人の経済活動を活発にしたそのことに起因する形で化政文化が開花したというように、”インフレ”が吉と出た結果をもたらしました。

江戸時代の終焉

大御所時代の終焉と幕府政治の衰退

大御所・徳川家斉の死後早々、老中・水野忠邦が主導する天保の改革がはじまりますが、およそこの時期を境として、江戸幕府終焉へのカウントダウンも始まりました。

例えば天保の改革では、まずは前記した”小判鋳造に伴うインフレ対策”として打ち出される政策が的を射ないものとなっていきます。

モノづくりが進化を遂げ、貨幣経済が発達し、物流も進化したことによって人々の生活態様は必ずしも農業を中心としなくなっていくのですが、その結果、石高制を柱とした農本主義を想定する幕府の政策が経済の肝を見誤るようになって行くんですね。

以降、幕府の権威も低下の一途を辿り、徐々に諸藩に対する睨みが効かなくなっていくのですが、その背後には、幕府が上手く対応できなかった新時代への変化にいち早く対応していた、後に討幕の主勢力となる西国の雄藩(薩長土肥)の存在がありました。

幕府にとっては不運なことに、およそこの時期を境として“列強からの外圧”も強まっていきます。

時の国際情勢

18世紀末〜19世紀にかけての”海の外”は、アメリカ独立戦争やフランス革命に代表される市民革命の時代でした。

フランス革命において革命勢力側から”アンシャン・レジーム”と呼ばれた旧体制は、帝政ローマの崩壊後、キリスト教の聖職者絶対君主、さらには特権貴族等、ごく一部の人たちの支配によって成立していました。

フランス革命ではこの“旧体制”打倒が狙われ、その狙いはのちにナポレオン戦争へと継承されるのですが、ナポレオン戦争後には、再び旧支配階層によるウィーン体制の時代が訪れます。

ですがこの”反動保守”による支配も時流には抗えず、やがて1848年革命の時代を経て崩壊へ向かうことになりました。

“旧体制打倒”を実行した、フランス革命に始まる市民革命の是非については、例えば、

  • 「革命が本当に人々を幸せにしたのか」
  • 「真に自由・平等・正義がもたらされる議会が誕生したのか」

等々、のちにつながる本質的な問題をはじめ今も諸説が混在していますが、この点を含めたとしても、市民革命の時代が神と王を頂点とするヨーロッパの支配構造そのものを終わらせたのだ、とは言えるでしょう。

時あたかも”革命”の舞台となった各国で次々産業革命が進展していった、世界がより小さくなっていった時代でもあったという、そんな世界の激動期。

日本海の向こうに位置する中国大陸にて、清王朝がアヘン戦争の敗戦によって植民地時代のはじまりを迎えようとしていた時代はまた、日本にとってもはや開国は不可避となった時代でもあります。

この時期の日本に討幕が必須だったかどうかについては今なお議論が紛糾するポイントであり続けていますが、いずれにしても国の統治体制自体を早急に進化させることが必須となっていました。

開国、文明開化

開国後、日本は幸運にも列強の植民地にならずに済み、ザンギリ頭(=ちょんまげを結わない頭)を叩いてみれば 文明開化の音がする」時代が訪れることとなりました。

余談として、明治の世で流行ったこの都々逸には、既述の有名な一節の他”半髪(=ちょんまげ)頭を叩いてみれば 因循姑息の音がする”という一節も含まれていますが、かつての武士階級を揶揄するような風潮からは、開国・開港によって幕を開けた新しい時代への期待がうかがえなくもありません。

しかしその一方で、江戸の庶民文化の片鱗などには、今なお古き良き時代を感じさせるような、一抹の郷愁が宿ることも少なくありません。

数々の古典や、今に残る下町風情もその一例ですね。

即ち、時の日本人が生み出し、かつ時代を彩った日本文化が対象だからこそ抱く感情だと言えるのでしょう。

タイトルとURLをコピーしました