【開港都市の風景/2023長崎】南山手居留地跡と開港期の長崎(路面電車大浦天主堂駅傍)

西日本
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旧南山手/東山手居留地

南山手居留地跡

路面電車の大浦天主堂駅から少し歩いたところに、“南山手居留地跡”“長崎電信創業の地”“国際電信発祥の地”という、三つの石碑がまとめておかれている一角があります。

付近にはちゃんぽん発祥店・四海楼ボウリング発祥碑などもある、旧居留地跡がそのまま残されているような風情のある地であり、この三つの石碑のすぐとなりから、南山手町方面へと向かって伸びたグラバー坂が始まっています。

東西の山手町と外国人居留地

路面電車の大浦天主堂駅石橋駅間の線路を境として、

南西側に南山手町

北東側に東山手町という、かつて外国人居留地だった”二つの山手町”が広がっています。

いわゆる”安政の五か国条約締結”が契機となる形で、出島の南側に位置する”東山手”から、東山手の南西部に位置する”南山手”の海沿いにかけての平地部分が埋め立てられ、それぞれの丘陵部分を宅地用などに造成する形で外国人居留地として開いたことが、現在の南山手・東山手の始まりです。

1861年(文久元年)には南山手・東山手を含むエリアが、1866年(慶応二年)には長崎の外国人居留地が竣工しました。

長崎の居留地では当初から南山手町・東山手町に区分され、双方にそれぞれの個性があったようです。

南山手町は、主としてグラバー、リンガー、オルトなど、外国人商人たちの邸宅のための土地として使われた他に教会(大浦天主堂)が建てられ、平地部分には交易実務に関連する運上所や旧香港上海銀行長崎支店など金融機関が置かれていました。

一方で東山手町にはイギリス、ベルギー、ポルトガル、アメリカ、ロシア各国の領事館が立ち並んだほか、ミッション系の学校などが多くつくられましたが、当時の東山手地区は“領事館の丘”と呼ばれたようです。

日本国内の外国人居留地は全て明治32年=1899年に撤廃されますが(※)、現在、南・東それぞれの山手町の内部は、その大半が”国選定重要伝統的建造物群保存地区”に指定されていて(平成3年=1991年4月30日~)、東西の山手町にそれぞれ”街並み保存センター”が設置されています。

参考

“国際電信”と”電信創業”

同じ長崎市内、出島公式サイト)の傍には”電話開通の地”であることを示す”長崎電話交換局之跡“も置かれていますが、南山手居留地跡碑の隣に建てられているのは、電話ではなく電信創業の地であることを示す碑です。

電信とは、電気の力を利用して文字や符合などの情報を信号として送信(伝送)し、その信号を受信することによって情報を受け取るという通信方式で、当時の世界では最先端にあたる技術です。

日本国内では横浜・東京間に明治2年(1869年)に開通し、そのことを記念する”電信創業の地”碑が横浜・日本大通り地区と東京・中央区の隅田川沿い(明石町)に置かれていますが、長崎においてもそのわずか4年後に国内電信(長崎・東京間)・国際電信(長崎・上海間、長崎・ウラジオストク間)が共に開通しています。

この迅速な整備状況については、もちろん第一には当時この付近が外国人居留地だったことによっていますが、そのほか、

  • 当時最先端の技術だった電信や電報が急成長中の分野であったこと
  • 当時の世界の覇権国家であったイギリスが国の威信をかけて国際電信網を整備していたこと
  • このイギリスの思惑に(アジア進出や国際電信の延伸を希望していた)ロシアの利害が一致したこと
  • 長崎を起点とする電信網の整備を請け負っていたデンマークの大北電信会社が、帝政ロシアと密接な関係を持つイギリス系の会社であったこと

等々、時の国際情勢が後押しした部分も多々あったと考えられています。

図らずも列強の世界戦略の一端に乗せられることとなった長崎の外国人居留地は、国内でも二番目に電信網が開通した国際電信の発祥地となり、日本と世界をつなぐ役割を担うこととなりました。

参考

  • 長崎大学多文化社会学部「大学的長崎ガイド」昭和堂(2018年4月25日)
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