鶴ヶ城周辺の史跡3
萱野国老殉節碑

会津戊辰戦争最後の戦いである鶴ヶ城での籠城戦後。
降伏することとなった会津藩では、サムライ同士の戦争の習わしとして、新政府軍を相手とする戦後処理を迫られることになります。
城の明け渡しや、敵方の大将(=戦争指導者)の首を取ることによって、責任の所在や彼我の勝敗を明確にすることなどが求められていくという「戦後処理」=政治的な決着において、新政府軍は会津藩藩主・松平容保ではなく藩の重役級(家老)が責任者であると結論づけました。
「開戦責任、遂行責任は孝明天皇の信任も篤かった容保ではなく、容保に仕えた指導者の某かにある。そのものが名乗り出よ」という主張ですね。
この新政府側の要求は武士の情けの含みを持つものだったと捉えるのが自然な解釈ですが、のちに袂を分つことになったとはいえ、かつては同じ佐幕派の雄藩として京の治安を(長州藩士などの蛮行から)守るために共闘していた盟友・薩摩藩によって、会津戊辰戦争は萱野国老が犠牲となる形での終結が導かれます。
武士の情けとは、サムライがサムライに対して見せる究極の「温情」を意味します。
即ち、薩摩藩のこの裁定によって会津藩主と会津藩の命脈は辛うじて保たれ滅亡を逃れるのですが、裏を返せば、新政府内部には会津藩を厳罰に処すべきだという長州藩が主導する強行意見(意趣返し、忌憚なく言えば逆恨み)も根強く存在していた、ということですね。
ちなみに国家老(国老)とは、江戸ではなく領地(この場合は会津)で勤務する家老のことです。
同様の立場にあるものは既に皆自刃していた、もしくは行方不明となっていたため、藩主・松平容保に代わって責任を取れるものは萱野権兵衛・国家老の他には既にいなかった、このことが「萱野国老殉節」の決定的な理由となるのですが、この結末に対して他ならぬ松平容保自身が萱野権兵衛に詫び、忠義を謝する言葉を残しています。

その後昭和9年(1934年)、有志によって建立された碑は、現在も鶴ヶ城(公式サイト)の旧本丸エリアに残されていますが、Googleマップ等ウェブ地図には位置が記載されていないようです。
旧本丸エリアの北側に位置していたような記憶があるのですが、ボランティアガイドさんのガイドに沿って見学した場合、終盤に案内してもらえます。
参考:WEB歴史街道 “萱野権兵衛の切腹“

