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【冬の東北・信越青春18きっぷ旅/その6】鶴ヶ城城址公園(旧本丸跡地)

"聖地"探訪

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【冬の東北・信越青春18きっぷ旅/その6】鶴ヶ城城址公園(旧本丸跡地)

鶴ヶ城(若松城)城址公園

本丸跡

鶴ヶ城公式サイト公式X)の北出丸方向からお城の敷地に入り、表門=くろがね門をくぐると、門の内部には芝生の広場=鶴ヶ城城址公園が広がっています。

はるか向こうには会津の山々も見えていますが、ここが鶴ヶ城の旧本丸跡地です。鶴ヶ城藩主の居室や執務のための建物など、お城の中枢機能が据えられていたエリアですね。

北出丸や武徳殿などがある位置からすると、鶴ヶ城の天守閣を挟んで反対側に位置しています。

鶴ヶ城再建にあたって参考にされたという古写真や、

かつての本丸内の様子など。

地図内オレンジ色の部分が表(藩主の謁見など公式な儀式に用いられる場で、表門付近の一帯です)、中心部の紫色の部分が中奥(藩主の日常の居住空間や、執務の場です)で、一番左側に位置する青い部分は奥向(いわゆる大奥で、藩主の家族や女性たちの生活スペース)です。

江戸時代の日本を代表する名俳諧師・松尾芭蕉に”夏草や兵どもが夢の跡”と謳われたのは、武家政権始まりの時代に縁を持つ平泉の風景(高館義経堂公式サイト)ですが、12世紀末の鎌倉幕府の発足以降、”兵ども”の末裔である武家政権の時代は室町・江戸と三代・約700年弱に渡って続きました。

今はかつてとは違ってほぼ芝の広場が広がるのみ、という鶴ヶ城・本丸跡地は、日本の近世・近代史と共に鶴ヶ城の歴史を顧みた時には、それでも見る者の心に強く迫って来る熱量も持ち合わせています。

荒城の月碑

戊辰戦争後・明治期の鶴ヶ城のイメージは、大分県竹田市にある岡城、宮城県仙台市にある仙台城(通称・青葉城)などと並んで、”荒城の月”(参考:ゆめあるチャンネル “荒城の月“)のモデルとなり、後世に伝え残されていますが、

そのことを記念する碑が、本丸の跡地に建てられています。

作詞者である土井晩翠さんの直筆の碑です。

月見櫓/茶壺櫓

月見櫓

鉄門や天守を背にする形で本丸内をまっすぐ進んでいくと、やがて鶴ヶ城の内堀に行き当たりますが、売り彫りの手前には城の外や本丸を一望できる、やぐらが幾つか残されています。

櫓に架かる月の美しさからその名がついたという、元武器庫であった月見櫓、

現在跡地には基礎が残されているのみの状態となっていますが、

櫓のすぐ隣は内堀で、堀をのぞき込んでみると結構な高さがあることもわかります。堀の向こう側は、鶴ヶ城の二の丸(東側)・三の丸(南側)エリアです。

堀の遥か向こうには、戊辰戦争時に新政府軍が拠点を構えたという小田山城方向を望むことが出来ますが、この山々から鶴ヶ城めがけて大砲の弾がバンバン飛んできたようです(ただし命中精度はさほどでもなかったようです)。

茶壺櫓

月見櫓の北側に位置するのは、茶壺櫓です。

月見櫓と茶壺櫓の間には、本丸部分からの階段が用意されていて、ここから上ることが出来るのですが、

月見櫓からであれば、そのまま直進して、茶壺櫓へ。

茶室麟閣の上に作られたことから”茶壺櫓”と命名された櫓には、貴重な茶器類が治められていたようです。

櫓から望める茶室麟閣/廊下橋

命名の由来になったという茶室麟閣は、すぐ眼下で視界に入って来ますが、

この茶壺櫓沿いの内堀には、二の丸エリアとの間を結ぶ橋が架けられている様子を望むことも出来ます。

その名も”廊下橋”です。

その昔、鶴ヶ城がお城として機能していた頃は、敵の侵入を察知した時点でこの橋を落とすことも出来たようで、その際のトラップのあとだと解釈できる穴が、堀を構築している石垣に残されています。

主要スポット(鶴ヶ城城址公園)

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