【開港都市の風景/2023新潟】開港以前の湊町・新潟(先史時代、蒲原津、沼垂湊、新潟湊)

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新潟港の開港前史

古代以来の湊

新潟港の”湊=港”としての歴史は、開港5港の中では”兵庫津”をルーツに持つ神戸港に続く、二番目の長さを有しています。

「記録に残る範囲においては」ということですね。

平安時代(10世紀)に蒲原津かんばらのつとして始まった後、南北朝時代には沼垂ぬったりとして栄え、戦国時代以降は新潟湊としての繁栄を謳歌すると、江戸時代の前期(17世紀前半)には越後長岡藩の施政下での新潟湊(新潟町、沼垂町)の発展が促進され、現在につながる“新潟島”の町割りも固まって行きました。

幕末・維新期以降は港の進化に足踏みが続いた時期もあったものの、明治・大正年間には湊が港として整備され、なおかつ鉄道が敷設されたことによって、日本海側の開港都市としての基盤も確固としたものとなります。

参考

先史時代と新潟湊

湊町・新潟の発展にとって、信濃川があり、阿賀野川があり、かつ海岸線が長く伸びていたことはとても大きな恩恵となっていますが、例えば信濃川の流域から多く出土している“火焔土器”は、当時の新潟県域で栄えていた縄文時代中期の文化の象徴ともなっています。

火炎型土器ヒスイなど特産品の広範な分布、および国内各地への類似土器(=広義の火焔型土器群)の分布状況を根拠とする場合、後の新潟港エリアとその近隣を起点とする交易の跡は、既に縄文時代中期にはその形跡が残されているようです。

「文字としての記録には残されていないものの、状況証拠的には海運を利用したネットワークの広がりが推定される」、この場合の交易相手エリアとしては、例えば縄文時代に盛期を迎えていたという三内丸山遺跡が残された青森エリアや、ヒスイの産地である姫川流域エリア(現在の新潟県上越地方)などが挙げられます。

総じて、新潟湊のルーツの本当のところについては定かではないとも言える、後の”新潟港”を起点とした交易自体は記録以前から行われていたようだ、と捉えるのが正解なのかもしれません。

参考

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