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【00年代の札幌】寝台特急北斗星(札幌発上野着、A寝台個室ロイヤル)
簡易・ブルートレイン史
“ブルートレイン”とその時代
青い車体の寝台特急
今のJR各社が前身の国鉄(日本国有鉄道)だった時代、花形人気列車の一つに”ブルートレイン”がありました。
「青い車体の列車だったから、愛称としてそう呼ばれるようになった」という”ブルートレイン”は、昭和33年=1958年、東京・下関/博多間を結ぶ寝台特急”あさかぜ”投入によってその歴史がはじまります。
初代の客車である20系以来、”最後のブルートレイン”となった北斗星の24系に至るまで、”青”の客車が伝統となりますが、その人気の故は車体のカッコよさに加えて、長距離を走る寝台列車(特急)だったことにも宿っています。
長距離を走る、なおかつ車体がカッコいい寝台列車だったということで、駅停車時や踏切等の通過中には電車大好き小学生等に注目を浴びることしばし、その様子を遠巻きに見守る旅好きな大人たちにとっても、どこか特別な旅情を抱かせる類の列車の一つではあったようです。
いつもの駅のいつものホームに当たり前のように入って来る列車の佇まいが、いつも見慣れた電車のそれとは明らかに違う、あるいはその行き先が遠く離れた本州の果てや、その先にある九州等であるということであれば、それは等しくどの層からの注目も浴びることにはなって来るでしょう。
“出雲”や”瀬戸”のように、現在に至ってもなお後継列車が残されているというレアなケースも存在しますが、多くの”ブルートレイン”はその限りに非ずということで、昭和の後半から末期にかけて全盛期を迎え、そしてリタイアしていきます。
国鉄時代の主力”ブルートレイン”は、首都圏から中国・四国・九州方面へと向かう列車でしたが(さくら、はやぶさ、あさかぜ、富士、みずほ、出雲、瀬戸)、関西圏から九州へ向かう列車(なは、あかつき)や、首都圏から東北方面への列車(はくつる、ゆうづる、あけぼの)、さらには関西圏と東北・北陸方面を結ぶ列車(日本海)も運行されていたという形で、人気には実用性も宿っていたんですね。
新幹線、飛行機の台頭
一大”ブルートレイン”ブームが巻き起こったのは、戦後の高度経済成長がひと段落した1970年代~80年代にかけてのことです。
時刻表トリックを駆使したミステリ要素に悲喜こもごもの人間模様を絡めていくというスタイルが定番の、いわゆる”トラベルミステリ”が大ヒットしたのもこの時代の話しですが、ブルートレイン=寝台列車にとっては因果なことに、このブームとほぼ時を同じくして(厳密にはやや先行して)、新大阪・博多間を結ぶ山陽新幹線が開業します(1972年に一部開通、1975年に全線開通)。
因果なことにというのは、やがてこの”移動手段の高速化”がブルートレイン存続にとっての致命傷となっていくからなのですが、他、およそこの時期(1970年代から80年代にかけて)の国内の交通事情の特徴としては、新幹線と同時に”飛行機”の台頭をあげることが出来ます。
60年代のジェット機就航に続く70年代の空港整備の流れを受け、国内の航空輸送需要が激増すると同時に、82年には東北・上越新幹線が揃って開業します。航空需要の増加はやがて海外旅行の激増へも繋がっていったという青天井のものであり、東北・上越両新幹線の開業は、後の整備新幹線開業への期待を高めるものとなりました(参考:国土交通省公式サイト “昭和45年度運輸白書 70年代の空港整備の方向づけ“、”新幹線鉄道の整備“)。
加えて、国内の高速自動車道整備が急ピッチで進んだのも60年代から70年代にかけての話しで、”長距離移動手段”のライバルとして、長距離バスが台頭した時代でもありました。
ここでは深く触れませんが、一連の交通網整備に言及しつつ”国内を均等に繁栄させるべきだ”と(自説である日本列島改造論で)説いたのも、この時代に政権を取った”コンピューター付きブルドーザー”こと田中角栄首相でしたということで、要はそれがこの時代の持つ勢いや方向性だったということなのでしょう。
国内の交通事情が”ブルートレインブーム”に歩みを合わせる形で大きな過渡期を迎えていたということで、日本も世界も”より小さく”なっていく中、特に交通手段に関しては旅情よりスピードが求められる風潮も強まっていきます。
“ブルートレインブーム”発生の契機
次々壁を打ち破っていく交通インフラの発展に人々の需要が引っ張られていったという形ですが、実は”ブルートレインブーム”自体、新幹線や飛行機といった対抗馬に対する(国鉄自ら進めた)PR戦略が奏功した上でのもので、まずはじめに交通インフラの発展ありきで生まれたブームではあったんですね。
ブルートレインにいわゆる”ヘッドマーク“が採用された(1978年=昭和54年)のも、この広告戦略の一環ですが(参考:AERAdot. “かつては少年たちが熱狂!「イラスト入りヘッドマーク」登場から43年目の”現在””)、高速で、あるいは安価で長距離を移動できるという新しい交通手段に対して、わざわざ乗るに値する”カッコイイ”寝台列車をアピールしていこうという戦略でブルートレインを売り出したところそれが大当たりした、というのがブームの態様です。
とはいえ、”乗り継ぎ無し、一本で長距離を移動できる”というブルートレインの実用性・利便性に、新幹線や飛行機が持つ利点である”スピード”が勝っていくことになると、現実問題としてもはやブルートレインには抗う術無しといったところだったのかもしれません。
やがて一世を風靡した”ブルートレイン”は、特に昭和62年(1987年)に実施された国鉄の分割・民営化を境として逐次営業規模縮小(サービス縮小や運行本数減など)、あるいは廃止に追い込まれていきますが(主に平成前期の出来事です)、最終的には平成末期(2015年=平成27年)、札幌発(上野行き)北斗星の運行を最後に、その歴史を終えることとなりました。
ブルートレインの終焉と次世代の寝台列車
それではブルートレインの終焉と共に国内の寝台特急の歴史は幕を閉じてしまったのかというとそうではなく、今度は寝台列車の旅そのものを楽しむ(高級化やイベント列車化)という機軸の下で、かつてのものから実用性的な側面が切り落とされた、新しいタイプの寝台列車が登場します。
それが、”サンライズ瀬戸・出雲”(JRおでかけネット “サンライズ瀬戸・出雲“)といったどちらかというと観光用途にシフトした寝台列車や、”四季島“(公式サイト)や”瑞風“(公式サイト)、ななつ星(公式サイト)に代表される、クルーズトレインと言われる豪華寝台列車です。
“time is money”を良しとするのではなく、”priseless”な時間を売りとしていることを思わせる一連の”豪華寝台列車”群は、一朝一夕にポッと出たというよりは、国鉄末期の”ブルートレイン延命策”を継承した、JR最初期の寝台特急をルーツとしています。
個室寝台をメインとして、車体にも青以外の目を引く色を採用する、食堂車でのディナーを予約制にする、基点となる駅を首都圏以外にするなど、ブルートレインだけどブルートレインじゃないというような、従来型を継承しながらも新しいタイプの寝台特急として運行されることになった”北斗星”と”トワイライトエクスプレス”、さらには”カシオペア”ですね。
三本の寝台特急はいずれも札幌駅を起点として上野や大阪との間を結んでいる、という特徴を持っていますが、三者の間には”北斗星”や”トワイライトエクスプレス”の上位に位置付けられたのが”カシオペア”だったという関係があります。
つまりかつてのブルートレインの魅力を柱としつつも、寝台列車での移動をより魅力的なものとしていこうという方針が発展継承されることとなったのですが、いわゆる”ブルートレイン”を基準とするのであればもっとも新しく、現在の寝台列車を柱として見た場合にはそのルーツにあたるという、新旧の丁度間に位置する寝台特急が”北斗星”です。
新旧どちらから見ても異端に見えるといえばそうなのかもしれないですし、新旧どちらから見てもその系統にあるといっても、それはその通りだとなるところなのかもしれません。
今となっては最終運行のニュースがかれこれ10年近く前の話しとなってしまった北斗星ですが(参考:鉄道新聞 “さよなら寝台特急「北斗星」 27年の歴史に幕“)、その最終運行の約10年ほど前、最初にして最後の”ブルートレイン・北斗星”乗車機会に恵まれました。
札幌発上野行き”北斗星” -A寝台個室ロイヤル-
札幌駅にて
札幌駅5番線ホームに入線した北斗星号です。ややピントがぼけてしまっていますが、かつてのブルートレインにはなかった金色のラインと共に、北斗七星が描かれたヘッドマークが目を引きます。
ホームに停まっているだけでホームの雰囲気を変えてしまうというのも、ブルートレインが持つ魅力の一つなのでしょうが、
行き先表示に”上野駅”とあることもまた、目を引きます。
札幌駅のホームが首都圏と一本で繋がれている、ということが実感できる表示には、どこかホームの雰囲気まで変えてしまう力があるように思えてきますが、このあたりは路線の上下を逆転させて考えると、かつての上野駅の日常風景だった要素でもありますね(参考:西村京太郎『終着駅(ターミナル)殺人事件』レビュー)。
上野発(下り)北斗星は奇数番号、札幌発(上り)北斗星は偶数番号ですが、共に夕方以降発が翌日午前中に目的地に着くという行程です。
A寝台個室ロイヤル
この日の部屋である、A寝台個室ロイヤルです。
ドアを開けて室内に入った時に最初に目に飛び込んできた部屋の様子ですが、人生二度目のブルートレイン乗車、かつ、この時は”北斗星のA寝台個室ロイヤル”乗車が目的だったことから、予約が取れた一か月前からこの時を待ち望んでいたという瞬間でもありました。
入室の瞬間にかなりテンションが上がったことは、今でもいい思い出です。
ざっくり、室内の様子を図解すると以下のような感じなのですが、
カードキーを使って部屋のドアを開けた時、パッと正面の窓が視界に入って来る、左側にはシャワールームと机があって、右側には寝台に変形できるソファが用意されている、というレイアウトです。
机の左側すぐのところにはシャワー室、机の上部にはディスプレイと内線電話があるという感じで、軽く書き物をする分には問題ない程度のスペースが用意されています。
机奥の手帳の上に置いてあるのは、乗車後ほどない時間に食堂車のスタッフがルームサービスとして部屋まで届けてくれる、ウエルカムドリンクのセットです。
届くと同時に「確かに、これはブルートレインとはちょっと違う電車かもしれないな」ということを強く感じさせられた一品でもあったのですが、方々から訪れる乗車後の刺激によって、しばらくはドキドキしっぱなしの時間が続きました。
通路側には姿見が用意されていて、
その真横には”使い放題”のシャワー室が用意されています。
かつて人生で初めて乗車したブルートレイン”富士”は、同じくA寝台個室に乗車して大満足の旅行だった記憶があるのですが、どこかブルートレイン=寝台列車の旅だったということが強く印象に残っています。
対して”北斗星”ですが、寝台列車の旅というよりはどこか”移動可能なホテルで旅をしている”というような気分にさせられたことを、今でも何となく覚えています。
このあたりが新旧のギャップなのでしょう。
寝台特急の旅というよりは、どこかフェリーでの船旅に近いイメージですね(参考:さんふらわあ号乗船、苫小牧港から札幌へ)。
食堂車・グランシャリオ
食堂車の”グランシャリオ”です。”グランシャリオ”は北斗七星を意味していますが、北斗星の食堂車としてこれ以上はない位のネーミングですね。
予約制のディナータイムの後にパブタイムが用意されていて、そこでちょっとした食事やお酒を楽しむことが出来ました。
当時の記憶を辿ってみると、ここはどっちもありだったかな、という記憶があります。
グランシャリオで食べても良し、札幌で食べてから乗っても良しということですが、ディナーの予約を入れなかったとしてもパブタイムで小腹を満たすことは可能なので、札幌で食べてから乗るのもまた旅の思い出となるのではないか、ということですね。
食堂車の評判がべらぼうにいい場合であればまた話しは変わってくるのですが、評判がそこそこいい程度だと、すごく悩ましいところとなります。まさにそういう選択があったのが”グランシャリオ”だったという記憶があるのですが、この時は札幌での夕食を選択して、パブタイムのお世話になりました。
今更ながらの乗車の感想
北海道を抜けるまでが長い!
夜遅い時間にお腹が空いてパブタイムの食堂車にお世話になった後、部屋で一杯やりながらウトウトしていたような時間の記憶として、札幌発後函館につくまでがそもそも相当長かったように感じたということと、青函トンネルを抜けるまでがまた長かったというようなことが挙げられますが、特に前者ですね。
翌日到着後の予定を確認した後で改めてウエルカムドリンクを楽しんだ、車内を一通り歩いてみた、部屋に戻ってこの日一日を振り返ってみた、まだ時間に余裕があったので手持ちの本をしばらく読んだ、ほどよい時間となったので食堂車のパブタイムに向かった、帰ってきてからまた一杯やりつつウトウトしていた、等々とすごしていてもいつまで経っても函館にすらつかない、なんて気分になったことをなんとなく思い出します。
“北斗星”乗車に関しては何から何まで大満足の旅で、一瞬一瞬が自分の中に刻み込まれていくような気分になったことも思い出しますが、それでもいくつか残った不満点の一つとして、夜真っ暗になると外の景色が全く見えないんですよ、といった点を挙げることが出来ます。
その故もあって、乗車後数時間を過ぎるといい加減手持ち無沙汰な時間が訪れます。
どこを走っているのかわからない、函館はまだかな、青函トンネルはまだかな、なんて気分になってしまっていたのですが、結局函館通過、青函トンネル通過は日付け替わり前後だった記憶があります。
これが逆に上野発の北斗星だったらどのくらいの時間にここを通過することになったんだろうと考えた時、恐らくは日の出前後の時間帯ですよねといったところから、次に乗車機会があったらその時は上野発の方を選ぼう、なんて気分になったことを思い出します。
乗車感
これは人によって様々に分かれてくるところかもしれませんが、個人的には結構、線路の継ぎ目を拾う揺れが気になりました。
ウトウトしかかると「ガタンゴトン」と来るので、中々寝付けなかったんですよね。
不思議なことに”富士”乗車時に揺れが気になるということはあまりなかった記憶があるのですが、恐らくは気持ちの問題なのでしょう。
寝台列車に乗っているというよりはホテルの一室(シングルルーム)にいるような気分になってしまったことから、それが気になって仕方なかったということだったんじゃないかと思うのですが、逆に一旦熟睡モードに入った後は目が覚めてからも揺れが心地よかったというようなことになって、プラマイゼロかな、というところに落ち着いています。
次の寝台特急乗車がいつのことになるのかわかりませんが、一つにはこの点が若干気になるということと、あとは”夜の時間帯にどういうところを走るのか”に注意して、列車を選びたいなと思っています。