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【冬の東北・信越青春18きっぷ旅/鶴ヶ城周辺の史跡6】八重之像
新島八重と幕末・明治
NHKの大河ドラマ”八重の桜”(公式サイト)でヒロインとして描かれた新島八重さんは、1845年、甲斐国の戦国武将・武田信玄の軍帥(=ブレーン)を勤めた山本勘助の家系であると言われる、会津藩砲術師範・山本家の三女として生まれました。
その後、20代で迎えることとなった会津戊辰戦争時には、戦死した弟の形見の服をまとい、自らスペンサー銃を手に取って鶴ヶ城での籠城戦に参戦し、降伏・開城時にはその様子を「切歯扼腕の思いで見守った」というつらい経験をすることになるのですが、戦後城を退去するにあたっては鶴ヶ城の城壁に”明日の夜は何国の誰かながむらん、なれし御城に残す月影”と一首の和歌を刻み、慣れ親しんだお城に別れを告げたとされています。
“明日の夜は~”は、戊辰戦争後を感じさせる、月影がかかった夜の鶴ヶ城を振り返り「自分たちが慣れ親しんだ会津の鶴ヶ城を、明日からはどこの誰が眺めることになるのだろう」という敗戦・開城に伴う悲壮な感傷を謳った和歌です。
激動から静寂へという、全てが終わった後のもの悲しい現実が見事に表現された一首は、歌の中で使用されている語句や読まれた時期などに諸説が存在するようですが、それもこれも結局のところ、戊辰戦争における八重さんの活躍が(少なくとも女性としては)群を抜いたものだったことに起因しています。
時代が変わって明治になると、会津藩主・松平容保が京都守護職を勤めていた時代から前線で活躍していた旧会津藩士でありながら、”御一新”後には京都府顧問となっていたという(旧薩摩藩との縁が、この事を可能としたようです)、実兄の山本覚馬さんを頼る形で京都へ移り住みます。
この時に兄・覚馬さんの同志だったのが、後に八重さんにとって生涯の伴侶となる同志社大学の創設者・新島襄さんだったのですが、やがて八重さんは兄である覚馬さんやその同志であった新島襄さんとの縁から、まずは女紅場で権舎長を務め、後に神戸での花嫁修業期を挟んで新島襄さんと結婚、以降は後の同志社女子大学のルーツである同志社分校女紅場で教員を務めるなど同志社との関わりを深めていく傍ら、日本赤十字社の社員となって活躍するなど、多方面で活躍しました。
“権舎長”とは寮母のような地位、”女紅場”は、女子校の中では近代日本で最古に近い歴史を持っているという女子の教育機関で、現在は共学である京都府立鴨沂高校のルーツに当たります(参考:横浜山手と女子校)。
“八重の桜”放映と同年である2013年(平成25年)に建立された像は、鶴ヶ城(公式サイト)の三の丸エリアに位置しています。
参考:一般財団法人 会津若松市公園緑地協会 『鶴ヶ城公園の碑』(平成28年5月26日)、会津若松市公式サイト “近代女性の先駆者 新島八重“、同志社女子大学公式サイト “明治8年夏の八重“、”八重の代表歌「明日の夜は」をめぐって“、同志社大学公式サイト “新島八重“他