鎌倉・長谷寺の由緒
鎌倉の長谷寺と、奈良の長谷寺
鎌倉の地に長谷寺が開かれたのは、奈良時代のことです。
時期的には時の聖武天皇によって国分寺建立の詔(741年)が出される5年前、鎮護国家(後述)が国策として現実化する直前期(ほぼ同時期)に符合しますが、この時期、鎌倉の他に奈良でも”長谷寺”が創建されています。
それぞれの創建年は727年(奈良)、736年(鎌倉。この年=天平8年に初代観音堂が創建される)と近く、かついずれの長谷寺にも”長谷観音”と徳道上人が開山に関連しているという伝承が残されています。
参考
長谷寺と徳道上人
徳道上人
奈良の長谷寺開山の7-8年前、当時の大和国(現・奈良県)にあった百年越しの因果を持つ大木(近隣国から引いてこられた流木)から、観音様を作ろうと考えた僧がいました。
この僧こそが、二つの長谷寺を開山したと伝えられる徳道上人です。
徳道上人は、女帝・元正天皇(聖武天皇の先代)と藤原北家の始祖・藤原房前の力を借り、この大木から二体の観音像を作ると、一体を奈良の長谷寺へ安置し、もう一体は衆生救済を願って海へと流しました。
この海に流した一体が(736年に流着したといわれる)長谷観音だったというのが、鎌倉の長谷寺に残る言い伝えです。
鎌倉の長谷寺のはじまり
徳道上人は一体の流木から二体の観音様を同時に作り、うち一体をまさに作った傍から海へ流したのか、それとも奈良の長谷観音と鎌倉に漂着した長谷観音の制作時期にはタイムラグがあったのか、そのあたりの事情はよくわかりませんが、結果的に奈良の長谷寺に長谷観音が安置されたその約10年後、長井浦(現在の横須賀市の海岸線。丁度陸上自衛隊の武山駐屯地等がある、小田和湾の辺りです)に漂着した長谷観音が、現在の長谷寺で祀られることとなりました。
それが鎌倉の長谷寺が始まった736年の話です、と伝えられています。
参考
鎮護国家の思想と奈良時代
鎮護国家とは
鎮護国家とは、仏教の教えによって国家の安定・平安を図って行こうとする国家のことです。
奈良時代に、時の第45代天皇・聖武天皇によって実現が推進されました。
例えば国ごとの国分寺・国分尼寺の建立(741年、国分寺建立の詔)や東大寺の大仏造立(743年、大仏=廬舎那仏造立の詔)などは、”鎮護国家”を具体化するための政策として(詔として)発令されています。
この点、時の日本のグランドデザインが鎮護国家の理想と共にあったということは、奈良時代の仏教が国家仏教として国家権力と結びつき、国家の保護下に置かれていたことを意味しています。
なぜ当時の社会で仏教がそこまで重視されるに至ったのかという点については、ひとつには当時が波乱の時代だったことにも理由があると考えられていますが、国のバックアップが保障された布教体制は、後世に功罪それぞれの影響を残すこととなり、結果として”日本国内での仏教の在り方”にも強い影響を及ぼしました。
後世への影響
“鎮護国家”が後世に与えた影響としては、第一には仏教信仰と日本の在来信仰との結びつきが神仏習合の動き(=神と仏を同一視する動き)を生み出し、かつ促進したことが挙げられますが、”国の後押し”によって強い影響力を持つに至った奈良時代の仏教に対しては、やがて反動ともいえる動きが発生します。
聖武天皇の娘である女帝・称徳天皇(重祚した孝謙天皇)の時代、僧侶・道鏡を通じた”政治と宗教の癒着問題”が表面化し、後に(仏教の影響力を遠ざけることを狙った)遷都の一因となってしまったことは”反動”の典型例ですが、やがて仏教と政治の関係に腐敗を生じ、このことが忌避される風潮が生まれるに至りました。
これ全て、仏教信仰そのものに国家権力のバックアップがあったが故のことですね。
ということで、その結果生まれて来たのが「山中での信仰を重んじ、さらには密教化する場合もあった。信者も広く庶民を対象としたというよりは、貴族層に偏重するようになった」などという特徴を持った、平安仏教です。
国家権力から分離され、かつ信仰自体も先鋭化することになったという形ですね。
先行する奈良時代の”国家仏教”への反省から成長した平安仏教は、後続することになる鎌倉時代の仏教(鎌倉仏教は、庶民対象の分かりやすい信仰を特徴とします)とも異なる特徴を有し、発展することとなりました。