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【開港都市・長崎の風景】長崎孔子廟(東山手エリア、孔子廟通り沿い)

日帰り旅/国内小旅行

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【開港都市・長崎の風景】長崎孔子廟(東山手エリア、孔子廟通り沿い)

長崎孔子廟

about 孔子廟

長崎孔子廟こうしびょう公式サイト)は、紀元前中国(前6世紀~5世紀、春秋時代)の偉人・孔子が祀られた廟宇びょうう(=貴人の霊や神などを祀る建物)です。

1647年=正保しょうほう3年に創建された長崎聖堂‧孔子廟(孔子の遺品が祀られました)をルーツとして、明治26年=1893年、清国政府と在日華僑の協力によって建立されました。

以降、幾度かの改修を経て現在に至っているという、”日本で唯一の本格的中国様式の霊廟”(公式サイトより引用)です。

路面電車石橋駅(石橋電停)から徒歩圏内にありますが、およそ石橋駅と大浦天主堂駅の中間付近に入口があるので、どちらから向かうことも可能です。

東山手と南山手の間、東山手寄りのところに位置していて、東山手の中心部に通されているオランダ坂に隣接しているというロケーションも施設の個性の一つとなっていますが、かつて孔子廟の隣では、その昔の大浦地区を代表するホテルだった”ホテル・デ・フランス”が営業されていました。

“アジアの史跡”は必ずしも近代を連想させるものとは繋がらない、という面があるように感じることが多いですが、孔子廟の周辺は、早い時期からまんま”開国”エリアだったんですね。

about 孔子

“孔子廟”で祀られている孔子は、古代中国・春秋時代(前8世紀~前5世紀)を代表する思想家の一人です(時代を表す”春秋”は、孔子が編さんにかかわった歴史書”春秋”がその時代をテーマとしていたことに由来します)。

孔子自身はその時代を彩っていた思想家・学派の集団である”諸子百家しょしひゃっか“の”諸子”(時代を代表する思想家)に該当し、”百家”(学派)の方では、孔子の系統(教えと流れを汲む一派)は”儒家じゅか“と呼ばれる学派に該当します(”諸子”の中の一人である孔子が、”百家”の一つにあたる儒家の開祖です)。

体系化された”孔子=儒家の思想”は”儒教”とも呼ばれますが、儒家=儒教の思想は、人の世の倫理・道徳についてあるべき姿を説いています。

孔子自身が編さんした”春秋”の他、有名な”論語”などを含んだいわゆる”四書五経ししょごきょう“といわれる9つのタイトル(中国の古典)が儒教の経典となっていますが、後に漢王朝の時代には儒教が官学(王朝がその正当性を認めた学問)とされたほか、儒教から発展した朱子学は、江戸時代の日本にも強く影響を与えました。

余談として、明治期の仏教哲学者・井上円了えんりょう(東洋大学創設者)先生は、古今東西の哲学者の中から孔子を含む4人を”四聖”と定めていますが(他、釈迦、ソクラテス、カント。参考:東洋大学公式サイト “四聖“)、この派生形(?)として、孔子以下、釈迦、イエス、ソクラテスを”四聖”とする解釈もあるようです。

確かに”人が人としてあるべき姿を敬虔な姿勢から説いている”というあたり、孔子の業績には、古代ローマや中世ヨーロッパにおけるキリスト教(カトリック)のポジションを連想させられる部分も無きにしも非ず、倫理学の創始者といわれる古代ギリシャの哲学者・ソクラテスの教えにしても然り、といったところなのかもしれません。

孔子廟へ

施設内へ/入館料等

早速孔子廟の内部へ。

施設の一番外側に作られた”がく門”=入退場門の中に門=正門があるという廟宇の構造は、日本のお寺に総門(一番外側にある門)と山門(お寺の正門)がある違いと同じですね。

ただ、長崎孔子廟には”れい星門”と”儀門”、二つの正門があるようです(後述)。

入り口付近には、孔子廟についての写真入り説明なども用意されていて、

孔子廟や、孔子その人の案内としては『論語』の中の言葉も引用されています(後述)。

孔子廟の営業時間は9:30~18:00(最終入館17:30。不定休)、入館料は大人660円、高校生440円、小・中学生330円です(ほか、20人以上の入館で団体割引あり。詳細は公式サイト”利用案内“へ)。

“有教無類”と日本の良識

“有教無類”とは「人は教育によって良くも悪くもなる。”生まれ”がその差を作るのではないのだ」ということを意味する言葉です。

端的な言葉にしてどこか既視感のある教えでもありますが、日本人の有名思想家の言葉によってこの言葉の言わんとしているところを追っていくと、およそ、

『今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり』

『賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり』

『身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず』

『人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり』

(『 』内、福沢諭吉著『学問のすすめ』-青空文庫版学問のすすめ-より引用)

といったところにつなげることも出来そうです。

“今現在の世の中で、果してこの理屈が正面から通じるかどうか”ではなく、およそまともな世の中であればこの手の理屈は正常に機能するのではないかというような、そんな大切な要素となっている部分は感じ取れる気がします。

『学問のすすめ』自体はこの後「なら、学ぶってなんだ?」「勉強とはなんだ」「正しく生きるとはどういうことだ」等々といったような話に繋がって行ったり、そこからさらに国家社会を論じるような大きい話が展開されたりと色々な内容を含んでいるのですが、福沢諭吉自身の主張としては、儒教的なものの見方等々に対しては概ね批判的なスタンスを取っているものをよく見かけます(いくつかの著作を読む限り、その上で知る限りの話しですが、儒教が説く教えそのものに対して徹底して批判的であるというよりは、儒教が社会に作りだした”特定の何か”に対して、例えばアンチ門閥制度、アンチ封建制度というスタンスで、数々の主張を進めています)。

なので、『論語』と『学問のすすめ』の言わんとしていることが全く同じだというようなことは、ないのかもしれません。

ただし福沢諭吉自身が”武家”の出身である上、武家の常識・良識・教養自体が儒教から派生した朱子学を柱としたもので構築されているという時点で、双方のものの見方に類似性があったとしても、それはそれで至って自然なことではあったりします。

つまり、日本人一般の感覚で捉える”倫理・道徳”にも、儒教的なものの見方が深い影響を与えている面があるんですね、といった話でした。

前庭へ

“がく門”(=孔子廟の入退場門)入ってすぐのところには、前庭が用意されています。

創建90周年を記念して作られたという儀門(内正門、二の門)前の二つの石像、福建石獅の前には、小さく細長い池の上に碧水へきすいきょう橋が架けられていますが、この碧水橋の右手に作られているのが孔子廟の正門にあたる”れい星門”です。

その形にどこか既視感がありますが、”れい星門”は日本の神社の鳥居の原型になった門である、という見方もあるようです(孔子廟公式パンフレットより)。

この点、逆に神社側の資料からさかのぼってみると、奈良時代にはすでに現在の鳥居の形は確立されていたようで、その場合は、その時点で鳥居の形自体に独自の意味が宿っていたとされています(参考:三橋健『イチから知りたい!日本の神々と神社』西東社、2019.2.6他)。

ただし、孔子廟の歴史自体はそもそも孔子(前551年~前479年)の死後ほどなくして始まっている(参考:中国駐大阪観光代表処公式サイト “曲阜の孔廟、孔林、孔府“)ことと併せて考えるのであれば、奈良時代(710~784年)の鳥居の形がそもそも孔子廟のれい星門の影響を(例えば渡来人の発言によるなど、間接的に)受けているのだという可能性にしても無きにしも非ずのようにも思えてくるところです。

いつ、どんな形で(孔子廟・れい星門の)影響を受けるなら受けたのかが、結構気になってくるところではありますね。

前提の奥には大成殿へと通じる正門である儀門があって、その向こう側には回廊が用意されています。

回廊と大成殿

孔子廟の正門である儀門をくぐると、真正面には孔子廟の大成殿が位置していて、大成殿内には孔子座像が据えられていますが、回廊の周辺を取り巻いているのは、孔子の高弟たち=72賢人の石像です。

石像は、大成殿や博物館の回りにも置かれています。

大成殿の向こう側には常設展示や企画展等が行われている、中国歴代博物館がありますが、大成殿や博物館等孔子廟のすぐ上は、オランダ坂が通されている東山手の西洋館エリアです。

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