【開港都市の風景/2023長崎】近世欧州との交流、”天下人”たちのキリスト教政策

西日本
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長崎と西欧 -16世紀の開港まで-

室町時代以前の長崎

古くは人類の祖先の生誕以前に恐竜の活動跡が認められ、その後化石人類の台頭から古墳時代に至るまでの期間では、九州他地域との交流のあとが認められるような発掘もされています。

平安時代、鎌倉時代、室町時代の長崎は、後の激動に比較した場合、当時の日本の中ではごく一般的な、そこそこに栄えていた街であり続けたようです。

長崎の開港と、16世紀西欧のキリスト教

ポルトガル船の漂着から、長崎開港へ

欧州諸国との交際は、1543年の種子島(薩摩藩領)へのポルトガル船漂着を契機として始まり、その後1550年に平戸が、1562年に大村領横瀬浦がそれぞれポルトガルに対する貿易港として開かれ、1571年には長崎港(現在の長崎市中心部)が開港されます。

その後スペイン、オランダ、イギリスとも交易を開始しますが、最終的には対欧州貿易は長崎港(出島)一港に、相手国はオランダ一国に絞り込まれることとなりました。

参考:出島の誕生と、”鎖国”に至る交易事情

長崎港開港後の長崎は、日本から遠く離れた異国の文明が入り込む街としての歩みを始め、江戸時代の最初期(徳川幕府による禁教令発布の直前期)には“小ローマ”と称えられるほどの繁栄を謳歌します。

種子島に始まり長崎に至る最初期の対欧州貿易では、まずは外国船が漂着した地、あるいは寄港した地の有力者(薩摩藩、平戸藩、大村藩等)の一存で対策が取られていく、のちに時の権力者(当時の”天下人”や江戸幕府)による対策へとつながっていくという形で進みました。

これは交易のあり方自体が概ね国内統一の進捗と歩みを共にしたことによっていますが、この時代にはじまる交易はどこかなし崩し的に始められた面を有し、その結果の文明の流入に対しても、当初は無警戒な面を色濃く持っていました。

和親条約・修好通商条約の締結に沿ってはじめから政治的な計算と共に進められた19世紀の5港開港に比べると、少なくともその始まりは異質であったことがわかります(参考:【街歩きと横浜史】近代横浜の始まり -横浜開港-)。

三人の天下人と、対キリスト教政策

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人達の対欧州外交政策で終始一貫しているのは、交易については揃って奨励している点です。

異なるのは、対キリスト教政策ですね。

それぞれキリスト教の布教に対しては、織田信長は容認豊臣秀吉は容認から禁教へ、徳川家康は江戸での交易を活発化させるために一時的にキリスト教に対して寛容だった時期を持つものの、やがてキリシタン大名が関与した不祥事等を理由として禁教にかじを切りました。

家康にとってキリスト教禁教のきっかけとなった”キリシタン大名が関与した不祥事”とは、

  • デウス号事件:マカオで発生した暴動への報復として、長崎港にてポルトガルの商船・デウス号を焼沈させるなどした騒擾事件で、キリシタン大名の島原藩・有馬晴信の関与が疑われる
  • 岡本大八事件:キリシタン大名・有馬晴信の家臣であった岡本大八による汚職事件

という一連の問題を指しますが、その後の調査では家康自身の家臣にもキリスト教徒がいたことが発覚します。

当時すでに長崎のキリシタン大名(松浦氏、大村氏等)の間では仏教を絡めた紛争が相次いでいたことから、これらの事件が決定打となる形で、最終的に幕府による禁教が強化されました。

結論として、“キリスト教圏との付き合いのあり方”については、信長・秀吉・家康の三者が三通りの答えを出す形となっています。

同時代の欧州

ヨーロッパ”中世”

日本社会において激動の時代(戦国時代)が終わりを迎えようとしていたころ、中世が終わりを迎えた欧州社会でも、まずは“キリスト教のあり方”を巡る大きな変革期を迎えていました。

ヨーロッパの“中世”とは、王政ローマ・共和政ローマの後を受けた古代ローマ帝国にて、西ローマ帝国の崩壊(476年)から東ローマ帝国=ビザンツ帝国の崩壊(1453年)までの約1000年間、ヨーロッパに分裂後の”古代ローマ”(前753年~395年)が残されていた時代のことを指します。

要するに西洋史に固有の、後世から過去を振り返った時の便宜的区分であり、当時を生きた人々がそう自称していたのだというような”生きた”区分ではないのですが、キリスト教権力はこの“中世”に全盛期を迎えました。

余談として、”ビザンツ”は現在のイスタンブールの旧名・コンスタンティノープルのさらに旧名である、ビザンティンに由来します。

この地に東ローマ帝国の首都がおかれていたことからの命名ですね。

宗教権力と世俗権力 -教皇権と王権-

中世の欧州社会では、宗教的権威世俗的権威が併存していました。

  • 宗教的権威:ローマ教皇を頂点とするキリスト教聖職者の権威。理性・道徳面を支配。
  • 世俗的権威:国王や諸侯などの権威。生活実態を支配。

併存する二つの権威は、お互いを意識し合うことによって政治的なしのぎを削りつつ、いわば“二方面からの統治”を協同で進めますが、教皇も国王も常に正しいわけではない上、権力者の過ちは常に一般民衆の生活を(時に致命的な衝撃をもって)直撃します。

中世欧州社会が抱えていた問題として、政治と宗教が未分離の状態にあって、なおかつ暴政を止める制度も存在しなかったという点が挙げられますが、この二つの問題はやがてそれぞれが欧州内部の大変革をもたらす原因になると同時に、日・欧の外交関係においてもそれぞれに”難題”を提起しました。

すなわち、日本側に対してはキリスト教をどのように受け入れるか(あるいは禁じるか)、反対に欧州のキリスト教圏の国に対してはどのように世界にキリスト教を布教していけば利益を最大化できるのか、この点が難題として持ち上がります。

ただし”キリスト教の発信源”である欧州では、時をほぼ同じくして、キリスト教のあり方自体が大変革期を迎えていました。

キリスト教の変遷 -ミラノ勅令、スコラ哲学、宗教改革-

欧州の変革期

ヨーロッパ中世末にはじまる”大変革”は、宗教改革の時代に始まり、市民革命の時代まで継続します。

日本史であればほぼ戦国時代から江戸時代全期間に該当しますが、ここに”変革に至る予兆”があったという、中世末期に始まるルネサンス期まで含めると、その始まりが鎌倉時代の後期まで遡ります

“ルネサンス”とは、14世紀のイタリアにはじまり、のち16世紀にかけて欧州全域に広がっていったという、ヒューマニズム(人文主義)を柱とした古代の文芸復興運動のことです。

“中世”同様、後世にそのように総称されるようになったという時代区分であり、概念ですね。

時代の核となるヒューマニズム(人文主義)とは、宗教的な倫理観から脱却した自然な人間性のことを指しますが、この遠大な規模を持つ”変革期”、まずはキリスト教のあり方にメスが入れられ、“ルネサンス”が進化させたという精神的な支柱がリニューアルされます。

キリスト教 -発祥から中世へ-

キリスト教は、元々はユダヤ教の中から生まれた宗教で、旧約聖書を聖典とします。

ユダヤ教は、ユダヤ人の出自とも深いかかわりを持つ、戒律が厳しいことで有名な一神教ですね(参考:国土交通省 “ユダヤ教“)。

一方、キリスト教は開祖イエスによる”ユダヤ教に対する宗教改革”のような形をそのはじまりとして、まずは古代ローマで広まりました。

キリスト教では、旧約聖書+新約聖書を聖典とします。

ユダヤ教の勢力が優勢な中にあって、キリスト教の発展には幾多の受難が伴いますが、やがてローマ帝国のコンスタンティヌス帝が発したミラノ勅令(313年)によってキリスト教の信仰が認められると、後にテオドシウス帝によってキリスト教がローマ帝国の国教とされます(392年)。

その後も数々の公会議(聖職者による宗教会議)によって教義の解釈が進められつつ、キリスト教文化華やかなりし中世には、トマス・アクィナスの『神学大全』に代表されるように、スコラ哲学の隆盛によって神学(信仰についての学問的考察)が体系化されました。

ルターの改革

中世の西欧社会にあっては、キリスト教の教えや戒律自体が社会の絶対的な柱となっていたはずなのですが、精神的な権威として社会に君臨していたローマ教皇は、やがて教会権力の腐敗・世俗化への批判とともに、その権威が失墜します。

マルティン・ルターが時のキリスト教権力に対して『95か条の論題』を出し、改革を提起したのが1517年、”改革”に対抗する動きとしてイエズス会が設立されたのが1534年、アウクスブルクの和議によってカトリックに対する抗議者(プロテスタント)=ルター派が容認されたのが1555年です。

“ルター派の容認”は、中世に“ローマ・カトリック教会”の守護者を自認していたはずの神聖ローマ皇帝のお膝元、神聖ローマ帝国内の領邦(≒独立小国家。この場合はアウクスブルグ)において行われます。

この宗教上の判断は、領邦内での信教の自由容認と同時に領邦の独立性容認という象徴的な転換点となって、さらなる宗教的・政治的動乱への火種となりますが、その際にもう一方の核となるのが“神聖ローマ帝国”の弱体化ですね。

このことはのちに、主権国家体制の成立“宗教支配”の終焉をもたらしました(1648年、ウエストファリア条約締結)。

日本との関係では、種子島にポルトガル船が漂着したのが1543年、ザビエルが日本で布教活動を始めたのが1549年ですが、日本と西欧の”種子島におけるはじめての邂逅”、さらにその後の長崎で進んだ日欧交流は、双方にとって激動の時代の出来事でした。

信長・秀吉の対応、江戸幕府の制限貿易

織田信長が一貫してキリスト教の布教を容認していたのは、キリスト教権力共々、キリスト教の影響力下にある国全てを自分の支配下に置くことを狙っていたからだという見方がありますが、豊臣秀吉が取った対キリスト教政策には信長のような一貫性はなく、まずは容認、のちに禁教へとシフトします。

当初キリスト教国(ポルトガル)と手を組んでの世界制覇をもくろんでいたものの、欧州側に日本軽視とも取れる態度があったこと(フスタ船と呼ばれる軍船を巡るやり取りや、漂着したスペイン船乗員の失言が”26聖人の殉教”へと繋がってしまったサン・フェリペ号事件の発生など)や、キリスト教信者の信仰心の強さを知り、徐々に長崎を中心に広まったキリシタン大名同士の結束を恐れるようになっていきました。

最終的に、“ポルトガルとの同盟による世界制覇”が現実的ではないと悟った時に、一転して”バテレン追放令”(1587年。キリスト教の禁教・宣教師の国外追放を指示)へと傾きます。

“バテレン追放令”に関してはその他、キリスト教徒の一部が神社仏閣を破壊する行動に出る、日本人奴隷の売買が宣教師の関与によって広範に行われていたことにもよっていると判断されますが、結果江戸時代の長崎での交易はオランダと明を相手にしたものに限られ対オランダ貿易は出島に限定されることとなっていくなど、秀吉の”禁教政策”は結果として江戸幕府にも引き継がれています。

参考

  • 平川新『戦国日本と大航海時代』中公新書(2018.4.25)
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