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【開港都市・長崎の風景】出島の誕生と、”鎖国”に至る交易事情

長崎

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【開港都市・長崎の風景】出島の誕生と、”鎖国”に至る交易事情

ことはじめ -西欧との交易開始-

“世界の一体化”とアジア圏の交易

西欧から日本への航路が開拓されたのは、15世紀~16世紀にかけて訪れた”ヨーロッパによる世界の一体化”の途上、いわゆる大航海時代のことです。

ユーラシア大陸の西端(イベリア半島)を起点として、

1.大西洋と太平洋を横断する航路、

2.まずはアフリカ大陸の西岸を南下し、さらに東岸を北上した後に陸伝いに東進する航路(大西洋、インド洋を経て南シナ海、フィリピン海、東シナ海へと進んだ航路)

それぞれを当時の絶対王政国家がしのぎを削りつつ開拓しますが、この双方において当初有力だったのは、”世界の一体化”=大航海時代を先導したポルトガル・スペインです。

ポルトガルは西から陸伝いで、スペインは大西洋と太平洋を横断する形で、それぞれアジアへ到達します。

当時の欧州勢が敢えて海路の新規開拓を選択した(=特に上記「2」のルートで陸路を経由しなかった)理由は、ユーラシア大陸の中央部にイスラムの大帝国・オスマン帝国が居座っていたからですが、弱肉強食の世界でオスマン帝国を回避するルートとして新たに開拓された、日本への途上にあたるアジア圏の航路沿いでは、元々中世以来活発な地域間交易が行われていました。

紅海やペルシャ湾沿いなどのアフリカ・中東エリア、インド西岸インド東岸東南アジア等々では、従来よりそれぞれの商圏が重なりあうことによって西欧への交易ルートを作っていたところ、新たにアジア圏に侵出してきたポルトガルを筆頭とする欧州勢によって、彼らが主導する形で商圏が再編されます。

地域間交易から世界交易へ

より具体的には、西欧の国々が交易品(アジア原産の香料など)の原産地となるエリアと直接関係を持つことによって、より自国優位(=欧州中心)の取引が行われるようになっていくのですが、忌憚なく言えば絶対王政国家スペインや、そのライバル国であるポルトガル(王国)が先導した大航海時代の航路開拓は、アジア圏でも商圏の争奪戦へと結びついていきました。

その結果、インドのゴアマレーシアのマラッカ(共にポルトガルの拠点です)、フィリピンのマニラ(スペインの拠点です)等と並び、マカオ(中華人民共和国南部海沿いに位置する特別行政区)が欧州勢(特にポルトガル)にとっての重要拠点の一つとされますが、元々15~16世紀当時(西欧との交易開始前夜)のアジア圏は、例えば日本と明の間で日明貿易(勘合貿易)が行われていた他、日本と東南アジアの国々(インドネシアインドシナ半島の国々)は、当時の琉球王国を中心とした琉球貿易(いわゆる中継なかつぎ貿易)で結ばれていました。

琉球(沖縄)が中継地となる形で結ばれた交易ルートによって、日本は香料などの南海特産物を輸入し、反対に日本から琉球へは日本刀、屏風、扇子などを輸出する(その品が、琉球経由で例えば明へと渡る)という形の交易が”中継貿易”です(参考:笹川平和財団海洋政策研究所東アジア交易圏の中の琉球“)。

中心地となった琉球王国は、中継貿易の隆盛によって繁栄を謳歌していました。

このように、それぞれの地域にもたらした利益は大きかったとはいえ、それでもあくまでローカルなネットワークに過ぎなかった(中継貿易のような)当時の地域間交易に、世界を一体化させつつあった大航海時代の欧州の国々が、新たに参画を始めます。

以下、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスそれぞれの”時の日本とのはじめての邂逅”から制限貿易に至るまでの出来事を、時系列に沿って簡潔にまとめます。

対ポルトガル交易の開始

1543年の種子島(薩摩藩領)へのポルトガル船漂着から、日本の対西欧交易が始まります。

種子島へのポルトガル船漂着後、1550年に平戸が、1562年に大村領横瀬浦が、1571年には長崎港(現在の長崎市中心部)が、いずれもポルトガル船に対して開港されました。

対スペイン交易の開始

1584年にスペイン船が平戸に来航し、日本との交易が始まります。ポルトガル船やスペイン船は”南蛮船”と呼ばれました。

対オランダ/イギリス交易の開始

1600年、豊後ぶんご(現・大分県)の臼杵うすき湾にオランダ船リーフデ号が漂着、その後リーフデ号の乗組員だったオランダ人航海士・ヤン=ヨーステンとイギリス人水先案内人・ウイリアム=アダムスを介する形で、オランダ、イギリスとの交易が始まります。

オランダは1609年に、イギリスは1613年に、それぞれ平戸に商館を設置しました。

“南蛮船”と呼ばれたポルトガル船、スペイン船に対して、オランダ船、イギリス船は紅毛船と呼ばれました。

出島の誕生と鎖国令 -鎖国祖法観の形成-

交易とキリスト教政策

17世紀初頭の日本に西欧4国(ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス)が出そろい、江戸幕府を相手とした南蛮船(ポルトガル、スペイン)や紅毛船(オランダ、イギリス)による貿易が行われていた頃。

安土桃山時代から続く国内統一の機運の中で、最終的に天下を統一し江戸幕府を開いた徳川家康もまた、キリスト教を容認するのか、黙認するのか、それとも完全に禁止するのかの判断に迫られます。

織田信長や豊臣秀吉同様、家康も交易を続けることそれ自体についてはやぶさかではないと捉えていたものの、西欧との交際に伴うキリスト教の受け入れについては必ずしもその限りではなかったということで、時間の経過と共に悩みの種は大きくなりました。

日本国内への浸透と共に、キリスト教絡みの問題も増えていったからですね(参考:三人の天下人とキリスト教)。

最終的に禁教へと舵を切ることになった家康の判断は、後に孫の家光(三代将軍)にも引き継がれることとなりますが、結果として禁教政策を柱とした鎖国体制へと繋がっていったという形で、西欧との交易にも決定的な影響を及ぼします。

イギリスの日本撤退とスペイン船の来航禁止

オランダとの”商戦”に敗れたイギリスは1623年に平戸の商館を閉鎖し、早々に日本との交易から撤退します。

イギリスの撤退はオランダとの勝負を見切り、アジアでのターゲットを日本からインドに切り替えたための措置ですが、翌1624年には、徳川幕府第三代将軍・徳川家光の時代(将軍在位期間:1623年~1651年)から厳格化した”鎖国”政策によって、スペイン船の来航が禁じられました。

スペイン船の来航禁止は、幕府の禁教政策に伴う渡航制限によるものです。

出島の築造

1636年、江戸幕府の命によってポルトガル人を隔離・収容するための人工島=出島が、幕府の直轄地(=天領)・長崎に作られます。

1634年に着工し、二年後の1636年に竣工しました。

当時の長崎の有力町人25人(出島町人と呼ばれます)の共同出資による事業で、竣工後ただちに長崎市内に在住していたポルトガル人たちが収容されます。

“ポルトガル人収容”は、キリスト教布教の阻止や、対ポルトガル貿易の管理などを目的としていました。

ポルトガル船の来航禁止と”鎖国”の完成

やや間が悪かった点としては、新築された出島へのポルトガル人移転からわずか3年後の1639年、島原の乱発生(1637~38年)を主要因として、ポルトガル船が日本への来航禁止となったことがあげられます。

その前年にあたる1638年(鎖国令によってポルトガル船の来航が全面的に禁止される前年)には、既に出島のポルトガル人商人は全てマカオに追放されていたのですが、改めてポルトガル船の来航が禁止されたということで、空き家になった出島にはオランダ商館が(平戸から)移転する運びとなりました。

ポルトガル人追放の3年後、1641年のことで、幕府の命によっています。

“オランダ商館の出島移転”実現には、当時の長崎を支配していた長崎奉行所に対する”出島町人”の強い働きかけ(オランダ商館誘致を推す抗議)が奏功したようですが、以降日米修好通商条約をはじめとする”安政の五か国条約”発効年にあたる1859年に至るまでの218年間、出島のオランダ商館で展開されるオランダ東インド会社との交易は、日本で唯一の欧州との接点となりました(東インド会社について、後述)。

参考:長崎文献社『出島ヒストリア 鎖国の窓を開く』2013.12.25 他

ポルトガル・スペインと、各国の”東インド会社”

欧州諸国が主体となった対アジア圏交易では、大航海時代を先導したポルトガルやスペインのように王室が貿易事業を独占した国の他、有力商人の共同出資によって”アジア圏貿易”を事業化した国もあったのですが、東インド会社とは二者のうち後者の事業体、すなわち幅広くアジア一帯をターゲットとして貿易を請け負う(西欧の)会社のことです。

オランダ、イギリス、フランスなどで設立されました。

中でもオランダ東インド会社は”世界初の株式会社である”と言われますが、ここで言われる”会社”の意味合いは、ほぼ今時のニュアンスで解するところの”会社”のルーツにあたります。

今時の”会社”と決定的に異なる点としては、それぞれの東インド会社が軍事力と交戦権を持ち、司法権を持ち、外交権を持っていたなど、本国外では独立国家のような体を持っていたことがあげられますが、東インド会社が持つそのような性質に着目するのであれば、”特にアジア圏での貿易を業とした、本国の別動隊”のような組織だったと捉えることができます。

会社といえば会社だけど(今時の会社組織のように、いわゆる商行為のみを業としているわけではない)、といったところですね。

また、会社名には”東インド”(=インドネシア)と掲げられていますが、インドやインドネシアには限定されず、重点エリアは国によって異なります。

例えばオランダ東インド会社は長崎の出島や東南アジア(バタヴィア=インドネシアのジャカルタ)に拠点を持っていた他に南アフリカのケープタウンにも植民地を設立し、イギリス東インド会社はインド以外に中国相手の貿易でも利益を上げました。

江戸時代の対オランダ交易と鎖国祖法観

江戸時代に先立つ16世紀(安土桃山時代)の対欧州交易では複数の港が開かれていたことに対し(参考:“19世紀の開国”との異同)、17世紀以降、江戸時代の出島を基点とする対オランダ交易のあり方は、海外に門戸は開かれているものの、開き方が極めて限定的である上、開放的であるとは言い難い実態を持っていました。

三代将軍徳川家光によって発布された5次にわたる鎖国令(1633年~1639年)、および出島の築造によって完成したこのような対外(対欧州)交易の実態は、後にレザノフの開国要求(1804年)に対して幕府側が主張することになった、いわゆる“鎖国祖法観”(制限貿易体制こそが日本外交の基本線である、と捉える考え方)の礎ともなっていきます。

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