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【開港都市・長崎の風景】大浦海岸通り(路面電車が走る”旧・交易場”)
海岸沿いの旧・メインストリート
大浦バンド
路面電車の石橋電停側(南山手町側)からオランダ坂に進んだ場合、坂道を下りきってほぼすぐのところには、上下がそれぞれ4車線ずつ、道路の中央には路面電車が走っているという大動脈・大浦海岸通りが通されています。
国道499号線の、特に市民病院前交差点から松ヶ枝交差点までの間(道路が大浦町に隣接している区間)が”大浦海岸通り”と呼ばれているようで、市民病院前交差点から北側に入ると、今度は同じ国道499号線が”出島海岸通り”と名前を変えて続きます。
首都圏でいうところの国道16号線を思わせるような大国道ですね。
現在でも地域一帯では最大級を思わせる動線となっているのですが、その事情はかつてもほぼ同じだったようです。ただし、かつては主に外交や通商でにぎわった通りだったようで、各国の公館や商社でにぎわったメインストリートは”大浦バンド”と呼ばれていたようです。
梅ヶ崎ロシア仮館跡/ロシア旧蹟
ロシアの足跡
オランダ坂をまっすぐ道なりに進んで大浦海岸通りに交差する交差点付近には、かつての事情を偲ばせる碑として、”梅ヶ崎ロシア仮館跡”の案内板が、長崎日ロ協会によって設置されています。
仮館とは、ロシア使節であったレザノフが長崎に上陸した際、外交の拠点とした建物のことです。
日本を相手取った近代ロシア外交がこの地に始まったということで、付近にはロシアゆかりの史跡の案内も置かれています。
ラクスマンからレザノフへ -異国船騒動の始まり-
時の日本が欧米5か国を相手に”安政の5か国条約“と呼ばれる通商条約を締結することになる19世紀半ばから、さかのぼること約半世紀前。当時まだ天下泰平の世の中を謳歌していた日本に初めて持ち上がった”異国船”騒動の相手国が、ロマノフ王朝時代のロシアでした。
太平洋上で遭難(1782年)した伊勢(現在の三重県です)の船頭・大黒屋光太夫をアリューシャン列島にて発見したロシアが、最終的に光太夫の身柄を日本側に返還するに至ったこと、その機にロマノフ朝の女帝・エカチェリーナ2世が日本との通商を希望したことが発端です。
騒動というよりは、表向き穏やかな話し合いが始められようとしていた、という状況ですね。
この”騒動”発生から実際に通商条約締結に至るまでにはさらに約半世紀の時間を費やすこととなるのですが、エカチェリーナ2世の使いであるラクスマンがまずは大黒屋光太夫と共に根室に来航し、幕府の役人に対して通商開始を要求します(1792年=寛政4年)。
光太夫の身柄は返還されたものの、この要求自体は「外交交渉は長崎でのみ行う」という幕府側の主張と共に拒否され、この時のラクスマンには長崎に入港するための信牌が与えられました。
それから約10年後(1804年=文化元年)、この信牌を持って長崎に来航したのが、ラクスマンと同じロシア使節のレザノフです。
ロシア皇帝・アレクサンドル1世(エカチェリーナ2世の孫に当たります)の使者として来日したレザノフは、ラクスマンと同じく日本に対して通商開始を要求するのですが、日本(幕府)側の結論としては「根室では、長崎に行けば外交交渉をするとは言ったけど、そこで通商を認めるとは言っていない」ということで、同じくロマノフ王朝からの通商開始要求を拒否することとなりました。
この時の幕府の「オランダ、中国、琉球、朝鮮以外の国とは通商関係を持たないのが祖法だ」という返答が、”鎖国祖法観”(祖法=先祖代々のしきたりにあたる決まり事の意)と呼ばれる考え方の定義に当たります。
“オランダ、中国、琉球、朝鮮と関係を持っているにもかかわらず、”鎖国”という表現はどうなのか”という主張もありますが、つまりは通商を狭い範囲に限定して進めていくのが自分たちのやり方だと、幕府側がロシア使節・レザノフに対しても主張することになったんですね。
ラクスマンからレザノフに至る一連の話しは、特に首都圏に軸足を置いた場合、どこか遠い世界での話に見えてしまう部分が無きにしも非ずといったところではあるのですが、この時期を皮切りにいわゆる”異国船騒動”は増加していき、半世紀の後には江戸近郊の寒村・横浜村において、新たに5か国を相手とした条約を締結するに至りました。