この記事を読むのに必要な時間は約 5 分14秒です。
【冬の東北・信越青春18きっぷ旅/鶴ヶ城周辺の史跡8】柴五郎生家跡
柴五郎生家と明治大正期の鶴ヶ城城下
柴四朗・五郎生家跡
鶴ヶ城(公式サイト)に隣接する”城前“町には、会津人初の陸軍大将・柴五郎さんと、その実兄である柴四朗さんの生家跡があります。
“生家跡”の目印は、地中に埋め込まれ、”陸軍”(?)と刻まれた文字がかろうじて読めるという石柱だったようですが、元々明治・大正期の会津若松は帝国陸軍の軍都であり、”城前”町を含む鶴ヶ城傍の一帯は歩兵第六十五連隊が営舎を設置するなど、拠点としていたエリアにあたるようです(参考:福島県立博物館 “会津若松と軍隊“、国立国会図書館サーチ “歩兵第六十五連隊営門“)。
戦後旧陸軍関係の施設はGHQに接収され、接収解除後にはその施設が再利用される形で、例えば営舎が困窮者や引揚者の仮住居となった後、現在の(建て替えを待っている)城前団地やつばくろ公園としての利用へと繋がって行きます(つばくろ公園は、会津若松市が国から無償貸与を受けた土地を公園として活用しています。参考:会津若松市公式サイト “つばくろ公園“)。
現在は”生家跡”の目印である石柱が置かれた地点には、観光協会肝煎りの説明書きも用意されていますが、
会津若松第二中学校や、前掲の城前団地などの傍に位置するつばくろ児童公園内の一画とも取れる場所に、
どこかひっそりという形で”跡地案内”が残されています。
厳密には、柴五郎さん、四朗さんの生家のあった場所は、現在の指定地とはやや異なるところだったという解釈もあるようです(参考:ザ・戊辰研マガジン “会津若松と柴五郎“)。
柴五郎と近代日本
“御一新”後の明治・大正期、兄の四朗さんは政治家として、弟の五郎さんは軍人として、柴兄弟は共に近代日本の発展に多大な貢献をして名を残すのですが、幾つかの理由から、特に弟の五郎さんの知名度が突出する形で後世に伝わります。
会津戊辰戦争後の旧会津藩士の苦難を記した名著『ある明治人の記録』を残したこと、北京での駐在武官時代に発生した北清事変において北京での籠城戦を指揮したこと、会津人初の陸軍大将となったこと、等々ですね。
『ある明治人の記録』執筆や会津人初の陸軍大将就任という実績についても国内的には十分素晴らしいことではあるのですが、特に”内外に大きな影響を与えた”柴五郎さんの実績としては、”北清事変での北京籠城戦指揮”がしばしば取り上げられます。
最終的に北清事変へと繋がって行く義和団の乱(1900-01年)は、時の中国の宗教系結社である”義和団”が、”扶清滅洋“(清を扶けて洋=海外勢力を滅ぼす、という意味です)をスローガンとして、キリスト教の教会や日本・列強の公使館等への襲撃を繰り返した事件です。
日清戦争(1894-95年)後の中国大陸の混乱の中、山東省で起こった反乱がやがて北京へ飛び火し、最終的には清朝が列強に対して宣戦布告するという事態に発展するのですが、義和団が主導した”義和団の乱”が、清朝を動かす北清事変(義和団事件)に発展していったという形ですね。
「西欧への反発が事件の本質にある」と捉えた場合、「仮に幕末期の日本が朝廷を抱き込んだ過激派のテロや政治工作に屈し、開国せずに”攘夷”を徹底することになっていたとしたら、果してその後どんな未来が用意されることになったのか」の”歴史if”がそのまま体現されたとも取れるのが、まさに北清事変(さらには一連の義和団の乱)です。
事件後に締結された北京議定書は単なる不平等条約などではなく、勝者・敗者の立場が明確に取り決められたものであるという(賠償金支払い規定を含んだ)講和条約ですが、その意味では、幕末の日本国内でいうところの下関戦争の規模を大きくしたような性質を持つ反乱でもあったのが義和団の乱でした。
「そもそも、なんでそのような問題が起こることとなったのか」という戦前の事情までさかのぼった場合、事の善悪をただ現代の価値観のみで解釈することは難しく、かつどちらかというとナンセンスに等しいことにあたりますが(当時の戦争は、結局のところ今現在を生きる人間同士が戦った戦争ではないためですね)、少なくともそのような反乱が起きた以上、反乱された側としては鎮圧する、あるいは抗戦して身を護るより他無いという事情については、目下のところ洋の東西、古今を問わないところです。
ということで、北清事変において430名の兵士と150名の義勇兵で1万を超える義和団を相手に二か月間の籠城戦を余儀なくされたのが、当時北京で陸軍駐在武官を勤めていた、中佐時代の柴五郎さんでした。
人数規模的には多勢に無勢を極めたという籠城戦において、後に駐日英国公使や初代駐日英国大使を務めることとなったクロード・マックスウェル・マクドナルドの下で”帝国陸軍の柴五郎中佐”が見事な指揮を取ったこと、さらには”事変”での籠城戦を日本兵が勇猛に戦い抜いたこと、最終的に援軍の到着まで持ちこたえたことによって圧倒的に不利だった籠城戦を勝ち戦につなげていったこと、これらのことがイギリスを中心とする列強に高く評価されたことによって、後の日英同盟締結を呼び込みました。
日英同盟は、「この関係なしでは日露戦争を戦い得なかった」という、”イギリスのバックアップ”が保証された同盟関係ですね。
19世紀の国際社会の中では、司馬遼太郎さんがいうところの「開花期を迎えようとしていた、まことに小さな国」に過ぎなかった日本が、当時の国際社会の頂点で”栄光ある孤立”(19世紀の英国は、弱肉強食の国際社会に軍事同盟無しで君臨していました)を保っていたという全盛期のイギリス相手に対等な同盟関係を構築することが出来たのも(イギリスの”栄光ある孤立”は、日英同盟締結によって終了します)、ひとえに柴五郎中佐の活躍と、その旗下にあった日本兵の勇猛な働きあってこそだと言われています。
列強にとっての日本評を大きく上げることになった柴五郎さんの大活躍は、やがて「この国であれば極東にてロシアの進出を食い止めることが出来るだろう」とイギリスに判断されるに至ることになるのですが、仮に出自が”生え抜き”であったとしても(仮に藩閥をバックボーンとした地位にあったとしても、ということですね)、間違いなく素晴らしい活躍だったとして語り継がれることになったでしょう。
ただし、ここで改めてという点として、そもそも柴五郎さんの場合、近代のスタート地点が幕末会津の戊辰戦争敗戦とその後の処遇にあります。要するに近代日本の繁栄の礎となるような大活躍が、『ある明治人の記録』作中で語られる、冒頭から陸軍兵学寮(後の陸軍士官学校)入寮に至るまでの苦難の人生の先に位置しているんですね。
そのため、その実績がことさら輝きを持って見えてくることになるのですが、”人生の刻苦”があたかも近代日本の試練に対応するために作られたものであったかの如く響いてくる面も、無きにしも非ずです。
参考:石光真人『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』中公新書(2017.12.25)、会津若松市公式サイト “福島県人初の陸軍大将 柴五郎“、国際留学生協会・現代日本の源流 “柴五郎“、群馬大学大学院医学系研究科・教授コラム “柴五郎が守り通したもの“