神戸旧居留地へ
東遊園地内から、旧居留地へ
神戸税関やKIITOなどに近い海側のエリアから東遊園地に入り、園内をまっすぐ神戸市役所や神戸三宮駅方向に進んだ後、北西の端にあたるエリアを背にして、公園外へ。
朝の日差しが照らす公園出口から、
旧居留地方面へ。
公園北端の位置に交差点があり、進行方向の道は西方にまっすぐ伸びているのがわかりますが、この道が旧神戸居留地内(上地図の赤い枠内)北部に通された北町通(下地図の青い線)です。
東遊園地の北西(左上)の位置=東遊園地内の青い点に立って、西(左)側を見通したのが上写真の風景ですが、神戸の旧居留地は、以下の”四本の道”に囲まれる形で存在しています。
東遊園地や神戸市役所も旧居留地内です。
方角/位置 | 道名 | 概要 |
東/右 | フラワーロード | 山陽新幹線の新神戸駅前と神戸税関をつなぐ兵庫県道30号線。神戸中心部を南北に縦断する形で通された、通称”フラワーロード”。 |
北/上 | 花時計線/西国街道 | 神戸市役所の北側に隣接し、”フラワーロード”と”メリケンロード”(後述)間を結ぶ、東西に通された道。 |
西/左 | メリケンロード | 港町・神戸中心部の北側に通された”山手幹線”と国道二号線を結ぶ”鯉川筋”の中で、特に大丸前の”元町通1丁目交差点“から”メリケン波止場前交差点“の道の通称。 |
南/下 | 国道二号線 | “税関前交差点“から”メリケン波止場前交差点“までの区間。 |
東西方向がフラワーロードとメリケンロード、南北方向が花時計線/西国街道と国道二号線でそれぞれ囲まれている形です。
上地図で言うと、右がフラワーロード、左がメリケンロード、上が花時計線/西国街道、下が国道二号線です。
参考
- 【開港都市・神戸の風景】神戸税関(KIITO隣、三宮臨海部)
- 【開港都市・神戸の風景/生糸貿易の跡】”KIITO”と旧・生糸検査所
- 【開港都市・神戸の風景】日本初の西洋式運動公園・東遊園地(旧居留地内、三宮中心部)
- 東遊園地公式サイト
- 【開港都市神戸の風景/日帰り神戸旅】横浜から神戸・三宮(港町神戸の中心地)へ
神戸の開港と旧外国人居留地
神戸他5港(横浜、箱館、新潟、長崎)の開港が取り決められた”安政の五か国条約“(=日米他修好通商条約)は、1858年に締結されました(発効年は1859年=締結年の翌年です)。
ただし、神戸の開港は当時の国内の政情不安を主な理由として約10年ほど遅れた他、戊辰戦争後の混乱が続いていた新潟でも、同様の理由から開港が10年ほど遅れます。
結果的に安政5(1859)年に横浜、長崎、函館が、慶応4/明治元(1868)年に神戸が、明治2(1869)年に新潟が、それぞれ開港する形となりました。
条約締結に対して10年ほど押してしまった神戸の開港ではありましたが、さらに開港を挟んだ数年がかりで居留地の整備(土地の競売や借地(後述)、工事など)が進められます。
“10年遅れの開港”に対しても完成がやや遅れることとなった形ではありますが、やがて“東洋の居留地の中でもっともよく設計された美しい街”=旧神戸居留地が完成する運びとなり、後に近代・現代の神戸が持つ”ハイカラな気風”のベースとなっていきました。
以下は余談ですが、当時の日本国内では外国人による土地の所有が認められていなかったため、”居留地用地”は法的には借地の形を取らざるを得ませんでした。
そのため“政府による、競売の落札者”を経由した上で居留民への借地が試みられたといった形で、法の抜け道(?)を辿るように話が進められることとなったのですが、“借地”が居留地造成の土台となったという点については、開港期の横浜にも同様の話しが残されています(※)。
国内の外国人居留地は、明治前半期には国内への海外文明の流入口としての繁栄が進みますが、やがて1894(明治27)年の日英通商航海条約締結を契機として、日本国内に居住する外国人に内地雑居(居留地以外の地域への居住移転の自由)が許可されたこと、および1899(明治32)年には反対に日本人一般にも外国人居留地内への移動が許可されたことによって法的な敷居が事実上撤廃される運びとなり、最終的には廃止に至ります(※2)。
今は無きかつての”居留地”の役割は、一義的には外国人居留民たちの活動のベースとなることではありましたが、彼らの活動は必然的に、この国で“文明開化”を促進することにもつながりました。
その意味での“かつて”を思わせる雰囲気は、今も神戸の”旧居留地”に色濃く残されています。
参考