鶴ヶ城周辺の史跡1
北出丸・追手門枡形
枡形とは

「枡形」は、鶴ヶ城(公式サイト)の大手口(正面入口)にあたる北出丸に設けられた、攻撃・防御のための石垣です。

豊臣秀吉に仕えた戦国武将である加藤嘉明の時代、つまり一般によく知られている、保科・松平時代の一つ前の藩主の時代に作られました。加藤嘉明時代には、枡形のみではなく北出丸、西出丸などの”丸”(丸=お城の軍事拠点)も作られていますが、これらの施設の連携は三方からの攻撃を可能としました。
枡形を突破されても東西からの攻撃で城への侵略者を挟み撃ちできるという形ですが、「三方攻撃」は後の会津戊辰戦争時には最後まで敵の侵入を許さなかったなど鶴ヶ城の堅牢な護りの柱となり、北出丸が「鏖丸」の異名を取ることの所以ともなったようです。
参考
- 一般財団法人 会津若松市公園緑地協会 『鶴ヶ城公園の碑』(平成28年5月26日)
- 一般財団法人 会津若松観光ビューロー『鶴ヶ城公式ガイドブック』(2021.10.31)
枡形と追手門
枡形は天守閣や旧本丸エリアから見て北出丸方向に位置し、内堀の外側に隣接しています。
すぐ手前には階段状の防壁である「大腰掛」が道の両側に作られていますが、枡形の上に付された「追手門」は、大手門と同じく「正面入口に位置する門」を意味します。「大手」と「追手」はこの場合同義であるため、大手門と追手門、大手口と追手口についても意味合いが等しくなるんですね。
遠藤敬止頌徳碑

枡形から少し歩いたところには、今日の鶴ヶ城城址公園の原点となった二つの石碑、「遠藤敬止頌徳碑」が置かれています。
会津戊辰戦争後に開城され、後1874年に解体されることとなった鶴ヶ城ですが、解体後の1890年(明治23年)、8万7千坪におよぶ城の跡地を所有していた旧陸軍省が、2000円で旧藩主の松平家への払い下げを決定します。
この時に払い下げ費用を負担したのが、戊辰戦争を戦い抜いた旧会津藩士であり、「御一新」後は政府勤めの後に第七十七国立銀行の頭取となって東北経済の発展にも大きく寄与した、遠藤敬止さんでした。
遠藤敬止さんは私財2500円で払い下げを受けると旧藩主である松平家に寄付、寄付を受けた松平家は1927年(昭和2年)に若松市へと譲渡、以降、改めて旧・鶴ヶ城跡地が城下町・会津若松のシンボルとなりました。
1971年(昭和46年)、この功績が称えられる形で、遠藤敬止顕彰会によって現在地に頌徳碑が建立されました。
参考
- 会津若松市公式サイト “鶴ヶ城趾保存の恩人 遠藤敬止“

