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【冬の東北・信越青春18きっぷ旅/その8】鶴ヶ城・天守閣からの風景

東北/信越青春18きっぷ旅

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【冬の東北・信越青春18きっぷ旅/その8】鶴ヶ城・天守閣からの風景

再建された鶴ヶ城・天守閣

鶴ヶ城旧本丸に隣接する天守閣(公式サイト)は、五層の作り(五階建て)になっています。

一~四層部分には会津若松の歴史についての展示で構成された”若松城天守閣郷土博物館”が、最上階には360度の展望が楽しめる展望層が、それぞれ用意されています。

若松城天守閣郷土博物館

会津藩の幕末史

再建された天守閣内・一層部分から始まる郷土博物館では、武家政権時代(鎌倉時代~)の鶴ヶ城の歴代藩主たちの経歴、さらには鶴ヶ城そのものの歴史もしっかり抑えられていますが、やはり圧巻なのは幕末史です。

会津藩の第九代藩主・松平容保公時代の激動、特に”幕末会津の悲劇”の端点となったと言われる、松平容保の京都守護職拝命以降の歴史が、その後の幕末の主な動きと共に年表形式で追われ、

戊辰戦争パートに至っても、主な合戦が時系列順にまとめられています。

会津藩にとっては幕末最後の戦いとなった会津戊辰戦争パートは、特に詳細にまとめられています。

一か月に渡る籠城戦の様子の後、鶴ヶ城開城、さらには斗南藩への(長州藩の木戸孝允が尽力した、事実上の流刑であるとも言われる)移封が記されて、

鶴ヶ城取り壊しへと続きます。

明治の世の元・会津藩士

このほか、白虎隊の生き残り隊士として明治の世を生き、東京帝国大学・京都帝国大学、九州帝国大学の総長を歴任したほか、旧会津藩の復権にも尽力した山川健次郎さん、

その山川健次郎さんの兄であり、会津戊辰戦争時には籠城戦の指揮官として采配を振るい、明治の世では健次郎さん同様近代日本の創世期の教育環境整備に尽力したという山川浩さんなど、会津出身の偉人紹介にもスペースが割かれています。

幕末の歴史と、その後の歴史

「義に死すとも不義に生きず」という名言を残した藩主・松平容保の下、「ならぬことはならぬものです」と教えられて育った会津藩の藩士たちが悲劇的な最期を迎えたとき、ほぼ時を同じくして終焉の時を迎えたのが、12世紀(1185年、あるいは1192年)にはじまり19世紀(1867年)に幕を閉じたという、日本史の中の武家政権の時代でした。

一方、大政奉還や王政復古の大号令などと共に形式上の幕を開けた”明治政府”の時代は、その約80年後にあたる1945年(昭和20年)、”力と力の戦争”だった第二次世界大戦敗戦と共に幕を閉じます。

以下余談として、その”80年後”の時代の話しについて。

第二次世界大戦後に行われた東京”裁判”(裁判の名を騙る、勝者が主催した政治ショーですね)で連合国側の理不尽な主張に真っ向から対峙した開戦時の首相・東條英機陸軍大将は、奇しくも一時期奥羽越列藩同盟に加盟していた盛岡藩藩士の家系の武人です。

そもそも昭和天皇の信任も厚かったという東條大将が開戦時の首相に就任せざるを得なかった世情、および終戦後に開戦責任を一身に背負う立場に置かれたこと等々は、”勝者の断罪”が記した一方的な歴史の向こう側にある、”幕末会津藩の悲劇”との間に少なからぬ類似性を感じてしまう部分でもあります。

“東條内閣組閣”は、元々は開戦一辺倒となっていた世論や、陸軍の強硬派を封じ込めることが期待された人事だったのですが、残念だったのは開戦前外交の趨勢的に”時すでに遅し”という、はじめから結論が見えていた時期の組閣であったことです。内情はともあれ、開戦二か月前の組閣が敵陣営にどう映ったかという点についてもプラスには働かないことが明白で、この点も不運といえば不運だったのかもしれません。

戦後自決に失敗した後の東條大将は、一転して自らが被れる責任は全て被る、自らの”法務死”を前提とした上での連合国側との”法廷”闘争を決意するのですが、この点においてもやはり、はじめから結論(=敗軍の将としての責任を”極悪人”として負わされること)が決まっていた戦いを戦うことになりました。

付け加えると、当時国民的な人気を博していたといわれる帝国海軍の山本五十六海軍大将も、時の海軍内部では”条約派”と言われた穏健派であったがために、暗殺回避を目的として連合艦隊司令長官に就任することとなり、最終的にはパプアニューギニア・ブーゲンビル島上空にて、昭和18年に戦死しています(山本大将の死は”海軍甲事件”として当初極秘裏に扱われた後、戦死の約2か月後に国葬が行われました)。

山本海軍大将を連合艦隊司令長官として”転出”した(=せざるを得なかった)、最後の海軍大臣・米内光政海軍大将もまた、海軍内部で”条約派”と言われた穏健派(条約派は、軍縮条約を順守すべきとの立場です)であったことから、やはり世の”強硬派”から命を狙われているポジションにありました。

山本大将は奥羽越列藩同盟に加盟していた越後長岡藩藩士の家系の武人であり、米内大将は東條大将と同じく盛岡藩士の家系の武人ですが、もう一人、山本大将や米内大将と同じく”条約派”の巨頭と目されていた”最後の海軍大将”井上成美海軍大将も、”列藩同盟”の盟主であった仙台藩のお膝元・宮城県仙台市出身の、元幕臣の家系の武人です。

これら全て「偶然の一致です」と言われればそれまでの話しなのかもわかりませんが、やはりどうしても因果なものを感じてしまうところでもあります。”サムライ”の魂を持った彼らが望まぬ流れの中で散ったことでまたしても時代が変わることになってしまった、”悲劇と共にある節目”という本質の類似性ですよね。

では、問題の根は果たしてどこにあったのか。

“攘夷”を騙るテロリストや人斬りが横行した幕末の荒れた京の都か、それとも”御一新”後ほどなく最大級の功労者を敵に回すことになってしまったという”官軍”の遺伝子か、はたまたイケイケドンドンで開戦やむなしとする強硬意見のみが支配するようになって行った開戦前の世論か。

さらには、問題に対する解決策として提示されたのは一体どういう策(特に人事)だったか、等々。

特に”表向きの歴史”があまりアピールしていない部分が詳細に伝わってくる幕末史の展示では、展示が詳細であったが故に、結果として多くの望まぬ悲劇を残すことになった日本の近代史の趨勢についても思うところが出てくるなど、とても充実した博物館見学の時間となりました。

鶴ヶ城・展望層からの風景

早朝の横浜・石川町駅からスタートした今回の青春18きっぷ旅。初日の目玉スポットと目していた会津若松・鶴ヶ城でしたが、その最終目的地点に到達したときには既に夕刻、ほぼ入館ギリギリの時間でした。そしてたどり着いた、オーラスの天守閣です。

閉館直前の時間帯だったということで、混雑とは無縁の状態で見学することも出来たのですが、既に夕日は山の向こうへと姿を消していて、はるか遠くの山々の頂が夕焼け色に輝いている他、手前ではボチボチ”日没感”が広がっていました。

早い話し、お城の中や街中はボチボチ薄暗くなり始めていたということですね。

ですがまだまだ肉眼でもはっきり見える景色はあったということで、つい先ほどまで歩いて回っていた鶴ヶ城・天守閣の周辺の景色を”復習”する機会にも恵まれました。

“武者走り”や観光案内所、武徳殿などがある北出丸方向には、内堀の外側に”北出丸大通り“(大まかな方向的には、JR会津若松駅方面です)が伸びている様子もハッキリ見渡せます。

旧鶴ヶ城の本丸内部方面ということでは、遠くに(戊辰戦争時に新政府軍が拠点としていたという)小田山城方向の山々が望め、堀の手前の石垣より内側には、茶室麟閣やその隣に位置している御三階跡などが視界に入ります。

思っていた以上に色々な見どころを回れたという、満足度の高かったお城見学の締めにあたる時間を過ごすことになった展望層での時間では、無事日程を消化することが出来たというほっとした気持ち、もうこれで終わっちゃうのかというちょっと寂しい気持ち、色々な気持ちがごっちゃになった満足感を味わうことが出来ました。

鶴ヶ城見学とボランティアガイド

ここで”お城見学”について。

今回の鶴ヶ城訪問でもはじめから「機会があれば、ぜひ」とは思っていたのですが、鶴ヶ城には無料で鶴ヶ城周りを案内・解説してくれるというボランティアガイドさんがいらっしゃいます(鶴ヶ城公式サイト “鶴ヶ城ボランティアガイド“)。

初めて見て回るお城をすべて自力で、なおかつ効率よく短時間で、というのは、中々ハードルが高くなってしまいますからね。

「機会があれば」というよりは、時間内に到達できれば是非、といった感じで考えていました。

北出丸方向の入り口から入った時に道なりにあたるスペースに位置している観光案内所で依頼するのですが、今回はものすごいタイミングでガイドさんがついてくれることになったため、面白く、わかりやすいお話と共に、とても効率のいい鶴ヶ城見学をすることが出来ました。

なので、もし鶴ヶ城見学を考えている場合は、ぜひぜひという感じで、強く”ボランティアガイド”利用をお勧めします。

主要スポット(鶴ヶ城天守閣/郷土博物館)

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