葭原久保(よしわらくぼ)の一里塚
ロケーション -旧東海道、県道732号線、国道1号線-
箱根の山中から芦ノ湖畔へ
湯本茶屋の一里塚より先、箱根の山中を絡み合うように進む旧東海道・県道732号線は、樫木坂や猿滑坂等の難所を経て甘酒茶屋へ、さらにはお玉が池付近から元箱根港付近(箱根神社第一鳥居傍)へと進んで、国道1号線に合流します。
この場合の1号線は、箱根新道ではなく箱根駅伝の走路となっている方の国道1号線ですね。
この1号線・旧東海道(732号線)の合流地点から少しだけ箱根町港方面に向かって歩いたところに、葭原久保の一里塚跡が残されています。
元箱根港から箱根町港バスターミナル方面に向かって少し歩くと、ほどなく国道一号線沿いは江戸時代以来の箱根名物・杉並木の道となりますが、
その雰囲気が色濃く出始めたところに、石碑が見えてきます。
葭原久保の一里塚
葭原久保の一里塚は、日本橋から数えて24番目(=日本橋から24里)、箱根エリアでは畑宿の次の一里塚にあたります。
葭原久保の一里塚跡より先、既に杉並木の道となっている国道1号線の横にて、これまた杉並木の道となっている、旧東海道跡の遊歩道が始まります。
この先、「入り鉄砲・出女」に厳格な検問が課されたことでお馴染み箱根の関所が同じく芦ノ湖畔にありますが、関所を超えると蘆川の石仏群へ、さらには難所である箱根峠方面へと進みます。
葭原久保の次の一里塚は?
旧東海道上の一里塚を日本橋からカウントすると、24番目の一里塚にあたる葭原久保の一里塚の次、25番目の一里塚にあたるのは接待茶屋の一里塚である「はず」なのですが、なぜか”25番目の一里塚”は欠番とされ、接待茶屋の一里塚は日本橋から26番目の一里塚としてカウントされています。
この点について、「一里塚とは、街道上に一里ごとに置かれた塚のことだ」「かつての一里とは、およそ人が1時間歩いた時に進める距離のことだ」という”一里塚”の定義から、
- その定義にそぐう”一里塚”がないため、”25番目”が欠番となった
- というよりは、単に日本橋から25里のところに塚を作れなかった
- 元々は葭原久保・接待茶屋間に25番目の一里塚があったが後に廃止された
- 25番目の一里塚までの累積誤差を清算する形で、”接待茶屋”が26番目に繰り下げられた
等々。その解釈に諸説が併存しているという、どこかミステリアスな(?)状況が残されています。
Googleマップで徒歩時間を計測してみると、葭原久保-接待茶屋間はほぼ1時間で歩ける距離になっている上、接待茶屋の次の一里塚である笹原の一里塚との距離もほぼ一時間で歩ける距離となっているので、少なくともこの区間のみに限れば一里塚は一里塚として機能していたのであろうことも伺えます。
だからこそ理由を特定しかねるし、“欠番”にも謎が宿り続けているということですか。
ヒントがあるとすれば、道中に箱根八里屈指の難所を含む畑宿・葭原久保の一里塚間が、歩いておよそ1時間半程度の距離にある、というあたりにでしょうか。
これを一里と言えるかどうか、言えないと判断された場合には畑宿-葭原久保-接待茶屋間のバランスがどう取られることになったのか。
「25番目の一里塚までの累積誤差を清算する形で、”接待茶屋”が26番目に繰り下げられた」説との相性が良さそうですが、そのあたりに答えを求めるのが素直な解釈ではありそうですね。
余談として、葭原久保の次、接待茶屋の一里塚は、山中一里塚、山中新田一里塚とも呼ばれていて、塚の一部は現存するようです(参考:函南町公式サイト “史跡(国指定・箱根旧街道と山中城)“)。