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【開港都市・長崎の風景】近世欧州との交流、織豊政権から江戸時代へ

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【開港都市・長崎の風景】近世欧州との交流、織豊政権から江戸時代へ

長崎と西欧 -16世紀の開港まで-

室町時代以前の長崎

古くは人類の祖先の生誕以前に恐竜の活動跡が認められ、その後化石人類の台頭から古墳時代に至るまでの期間では、九州他地域との交流のあとが認められるような発掘もされています。

平安時代、鎌倉時代、室町時代の長崎は、後の激動に比較した場合、当時の日本の中ではごく一般的な、そこそこに栄えていた街であり続けたようです。

長崎の開港と、16世紀西欧のキリスト教

ポルトガル船の漂着から、長崎開港へ

欧州諸国との交際は、1543年の種子島(薩摩藩領)へのポルトガル船漂着を契機として始まり、その後1550年に平戸が、1562年に大村領横瀬浦がそれぞれポルトガルに対する貿易港として開かれ、1571年には長崎港(現在の長崎市中心部)が開港されます。

始めに結論だけをまとめると、その後スペイン、オランダ、イギリスとも交易を開始しますが、最終的には対欧州貿易は長崎港(出島)一港に、相手国はオランダ一国に絞り込まれることとなりました。

参考:出島の誕生と、”鎖国”に至る交易事情

長崎港開港後の長崎は、日本から遠く離れた異国の文明が入り込む街としての歩みを始め、江戸時代の最初期(徳川幕府による禁教令発布の直前期)には”小ローマ”と称えられるほどの繁栄を謳歌することになるのですが、種子島に始まり長崎に至る最初期の対欧州貿易では、まずは”日本の国家としての意思”がその帰趨を決めていくという形ではなく、外国船が漂着した地、あるいは寄港した地の有力者(薩摩藩、平戸藩、大村藩等)の一存で対策が取られていく、そののちに国の中央との接触(天皇陛下や”天下人”との謁見)を試みていくという形で進みました。

“19世紀の開国”との異同

この時代にはじまる交易に特徴的だった点としては、どこかなし崩し的に進められた開港・通商であり、その結果の文明の流入となったことが挙げられますが、”和親条約・修好通商条約の締結に沿って、はじめから政治的な計算と共に進められた”(参考:横浜山手の近代と”港の見える丘”)19世紀の5港(長崎、横浜、函館新潟、神戸)開港に比べると、対照的であることがわかります。

元々は薩摩藩や平戸藩、大村藩等、港を持つ地の大名が主導していた海外交易に、やがて織田信長・豊臣秀吉といった”天下人”達の意に基づく政策が強制的に関与するようになり、最終的には徳川幕府が主導する制限貿易体制へ組み込まれていくことになるのですが、これは室町幕府の衰退によってはじまった戦国時代の日本国内には、未だ安定した統一政権が誕生していなかったこと、厳密にはその前夜にあたる織豊政権の時代を迎えた時期に当たったため、交易のあり方自体が国内統一の進捗に伴って姿を変えつつ進んでいたことによっています。

三人の天下人とキリスト教

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人達の対欧州外交政策で終始一貫しているのは、交易については揃って奨励している点ですが、それぞれキリスト教の布教に対しては、織田信長は容認豊臣秀吉は容認から禁教へ、徳川家康は江戸での交易を活発化させるために一時的にキリスト教に対して寛容だった時期を持つものの、やがてキリシタン大名が関与した不祥事等を理由として禁教にかじを切ったというように、それぞれが異なる姿勢を持っていました。

ちなみに家康にとって対キリスト教政策転換のきっかけとなった”キリシタン大名が関与した不祥事”とは、キリシタン大名の島原藩・有馬晴信氏が関与した”マカオにて朱印船の船員を多数殺害されたことへの報復として、長崎港にてポルトガルの商船・デウス号を焼沈させた事件(デウス号事件)”と、この事件にまつわる醜聞が流された(岡本大八事件)という一連の問題を指しますが、その後の調査で家康自身の家臣にもキリスト教徒がいたことが発覚し、幕府による禁教が強化されることとなりました。

デウス号事件や岡本大八事件以前にも、長崎のキリシタン大名(松浦氏、大村氏等)の間では仏教を絡めた紛争が相次いでいたため、デウス号事件や岡本大八事件の発生が禁教の決定打となるに足るだけの条件は既に整っていたのだ、と見ることも出来るでしょう。

交易については然り、しかし”キリスト教圏との付き合いのあり方”については三者が三通りの解答を用意していたということなのですが、日本社会において激動の時代(戦国時代)が終わりを迎えようとしていたころ、中世が終わりを迎えた欧州社会でも、同様に”キリスト教のあり方”を巡って大きな変革期を迎えていました。

ヨーロッパ”中世”

“ヨーロッパ中世”とは、西ローマ帝国の崩壊(476年)から東ローマ帝国=ビザンツ帝国の崩壊(1453年)までの約1000年間、ヨーロッパに分裂後の”古代ローマ”(前753年~395年)が残されていた時代のことを指します。

王政ローマ・共和政ローマの後を受けた帝政ローマ(古代ローマ帝国)の東西分裂後、西ローマ帝国の崩壊によって古代が終わり(=中世が始まり)、東ローマ帝国の崩壊によって中世が終わる(=近世、あるいは近代が始まる)、という形(西洋史主体の史観による区分)ですね。

ちなみに”ビザンツ”は現在のイスタンブールの旧名・コンスタンティノープルのさらに旧名である、ビザンティンに由来します。この地に東ローマ帝国の首都がおかれていたことからの命名です。

世界史でいうところの古代・中世・近世・近代等の時代区分は、単に後世から過去を振り返った時の便宜的な区分であり、当時を生きた人々がそう自称していたのだというような(ある意味で、”生きた”)区分ではありませんが、キリスト教(後のプロテスタントに対する、カトリック)権力は、この”中世”に全盛期を迎えます。

宗教権力と世俗権力 -教皇権と王権-

中世の欧州社会では、宗教的な権威(ローマ教皇を頂点とするキリスト教聖職者の権威)と世俗的な権威(国王や諸侯などの権威)が併存していました。

併存する二つの権威は、お互いを意識し合うことによって政治的なしのぎを削りつつ(時に教皇が、またある時には国王が優位に立ちつつ)、教皇がキリスト教による理性・道徳面の支配を、国王・諸侯は生活実態を支配するという、いわば”二方面からの統治”を行う形での協同が進みます。

ただし、教皇も国王も常に正しいわけではない上、権力者の過ちは常に一般民衆の生活を(時に致命的な衝撃をもって)直撃します。端的に言うのであれば、このような行き違いの積みかさねによって、特に中世末以降、特権階級とそれ以外の層の”利害”が深刻なレベルで剥離を始めてしまうことになったんですね。

日本史とは根本的な部分が異なっている西洋史の中で、中世末期以降の欧州社会が抱えていた問題としては、未だ政治と宗教が分離されていなかった(かつ、暴政を止める制度的な術を持たなかった)という点が挙げられますが、この二つの問題はそれぞれが欧州内部の大変革をもたらす原因になると同時に、日・欧の外交関係においてもそれぞれに”難題”を提起します。

日本側に対しては、一つにはキリスト教をどのように受け入れるか(あるいは禁じるか)、次には本音に潜む侵略意図にどう対峙するかという問題を提起し、反対に欧州のキリスト教圏の国に対しては、どうキリスト教を布教し、どう乗り込んでいけば利益を最大化できるのかという問題を提起することになりました。

“改革”へ

ここで、日本側にとってはともかく欧州側にとってこのことがより難しい問題となった理由は、当時の欧州が立て続けに訪れることになった”改革”の時代に入っていたという事情に宿ります。

ヨーロッパで中世後にはじまる”大変革の時代”は、その始まり(宗教改革の時代)から終わり(市民革命の時代)までの期間がほぼ日本史の戦国時代+江戸時代に等しい長さを持つ上、変革に至る予兆があった期間(中世末期に始まるルネサンス期)まで含めると、さらに鎌倉時代の後期まで加算されることになるという中々遠大な規模を持つものなのですが、まずはキリスト教のあり方にメスが入れられ、精神的な支柱がリニューアルされます。

最終的には、”教皇”と”国王や諸侯”の双方(宗教・世俗それぞれの権威者)が社会を治める体制から、1.まずは前者が衰え、2.やがて後者も衰退していく、3.そののちに”一般市民”が力を持つ時代へと推移を始めました。

キリスト教の変遷 -ミラノ勅令、スコラ哲学、宗教改革-

キリスト教 -発祥から中世へ-

キリスト教は、元々はユダヤ教(ユダヤ人の出自とも深いかかわりを持つ、戒律が厳しいことで有名な一神教です。参考:国土交通省 “ユダヤ教“)の中から生まれた宗教です。

ユダヤ教が旧約聖書を聖典としていることに対し、キリスト教では旧約聖書+新約聖書を聖典としますが、開祖であるイエスによる”ユダヤ教に対する宗教改革”のような形をそのはじまりとして、まずは古代ローマにて広まりました。

ユダヤ教の勢力が優勢な中にあってのキリスト教の発展には幾多の受難が伴うこととなったものの、やがてローマ帝国のコンスタンティヌス帝が発したミラノ勅令(313年)によってキリスト教の信仰が認められると、後にテオドシウス帝によってキリスト教がローマ帝国の国教とされます(392年)。

帝国の統治にはキリスト教の容認と国教化が必要であり適切だとの判断からの政策だと解されていますが、その後も数々の公会議(聖職者による宗教会議)によって教義の解釈が進められつつ、キリスト教文化華やかなりし中世には、トマス・アクィナスの『神学大全』に代表されるように、スコラ哲学の隆盛によって神学(信仰についての学問的考察)が体系化されました。

ローマ帝国の後を受けた中世の西欧社会にあって、キリスト教の教えや戒律自体がなくてはならない柱となっていたはずなのですが、精神的な権威として社会に君臨していたローマ教皇(ローマ・カトリック教会)は、やがて教会権力の腐敗・世俗化が批判されるようになったことから権威が失墜し、最終的にはそれまで盤石だったはずの制度にも陰りが見えてくるようになりました。

ルターの改革、戦国日本との邂逅

マルティン・ルターが時のキリスト教権力に対して『95か条の論題』を出し、改革を提起したのが1517年、”改革”に対抗する動きとして(イグナティウス・ロヨラが設立し、フランシスコ・ザビエルらが参加した)イエズス会が設立されたのが1534年、種子島にポルトガル船が漂着したのが1543年、ザビエルが日本で布教活動を始めたのが1549年、アウクスブルクの和議によってルターの主張が容認された(カトリックに対する抗議者=プロテスタントのルター派が容認された)のが1555年です。

“ルター派の容認”は、教皇と同時に国王による統治が行われていた中世には、”ローマ・カトリック教会”の守護者を自認していたはずの神聖ローマ皇帝のお膝元、神聖ローマ帝国の領邦において行われました。

実はこの宗教上の判断(=ルター派の容認)は、信教の問題と同時に時の権力者間の政治的な事情も絡む問題への解答だったという、中々象徴的な一事ではあったのですが、一度動き出した一連の変革は留まるところを知らず、中世からその次の時代(近代への過渡期である、近世)へと移行していた西欧では、さらなる改革を呼び起こす火種となります。

日本と西欧の”種子島におけるはじめての邂逅”、さらにその後の長崎で進んだ日欧交流は、まさにこの西欧にとっての激動の時代にはじまる出来事に当たります。

信長・秀吉の対応、江戸幕府の制限貿易

国の代表としての権力を手に入れた”天下人”達は、時の西欧の対日交易に伴う本音があらわとなった結果、「どこまでを信用し、どこまでを受け入れるべきなのか」という、相手国の本音ベースの対応を迫られることとなります。

それでも交易は外せなかったとしても、問題となってくるのがキリスト教の扱いですね。

織田信長が一貫してキリスト教の布教を容認していたのは、キリスト教権力と、キリスト教の影響力下にある国もろとも自分の支配下に置くことを狙っていたからだという見方がありますが、豊臣秀吉が取った対キリスト教政策には信長のような一貫性はなく、まずは容認、そののちに禁教へとシフトします。

当初キリスト教国(ポルトガル)と手を組んでの世界制覇をもくろんでいたものの、欧州側に日本軽視とも取れる態度があったこと(フスタ船と呼ばれる軍船を巡るやり取りや、漂着したスペイン船乗員の失言が”26聖人の殉教”へと繋がってしまったサン・フェリペ号事件の発生など)や、キリスト教信者の信仰心の強さを知り、長崎を中心に広まったキリシタン大名同士の結束を恐れるようになったことなどから(この杞憂は、秀吉の後を受けた家康が開祖となった徳川幕府の三代将軍、徳川家光が島原の乱の発生・鎮圧を通じて体感し、以降の強硬な禁教政策へと繋がっていきます)、その狙いが現実的ではないものだと悟った時に、一転して”バテレン追放令”(1587年に発された、キリスト教の禁教と同時に宣教師の国外追放を指示した命令です)へと傾きました(以上、参考:平川新『戦国日本と大航海時代』中公新書(2018.4.25)他)。

食えない相手に対して食えない解答を用意するという、いずれも弱肉強食の世界を思わせるやり取りとなっていますが、“バテレン追放令”に関してはその他、キリスト教徒の一部が神社仏閣を破壊する行動に出る、日本人奴隷の売買が(宣教師の関与によって)広範に行われているという現実を知ったことも影響を与えたと見られている節があり、以降、この秀吉の”禁教政策”は、結果として家康にも引き継がれていきます。

余談ですが、現在は憲法で明文規定されている政教分離原則や信教の自由(共に日本国憲法20条1項に規定があります)などは、かつての日本で行われていた禁教政策のような政策の否定の他、例えばここで問題となったキリスト教徒による神社仏閣破壊、さらには明治維新後に激化した廃仏毀釈(仏教排斥)運動等の行動を否定し、そのことをもって国の政策が人々の内心を侵すこと、さらには異教徒や少数派の信仰をも保護すると同時に、多数派による信教上の横暴を回避することにその狙いがあります。

総じて、あくまで”公共の福祉(=みんなの幸せ、というニュアンスで概ね解釈可能です)に反しない限りにおいて“という制限下で信心の自由が保証される既定であり、なおかつそれが”伝統文化の破壊を狙ったような曲解と共にある行動”に繋がってしまうと(ex.単に神道を忌避する個人的な感情・思想に基づいた、”政教分離原則”を根拠とする一般的習俗からの神道排斥活動などに繋がってしまうと)、その際には“本末転倒からの堂々巡り”を誘発してしまう恐れがある規定ではあるのですが、英米法の理念をバックボーンとする現在の日本国憲法にあって、”信教の自由保護””政教分離原則”は、英米のまさにこの時代(中世以降、近代にいたる激動期)が持つ歴史に由来する規定となっています。

最終的に、江戸時代の長崎での交易はオランダと明を相手にしたものに限られることとなり、対オランダ貿易では交易場を出島に限定されることとなっていくのですが、奇しくもこの時代を境として、三人の天下人達が三様に警戒していたというかつてのキリスト教は、その政治力を徐々に失っていくこととなりました。

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