【馬車道/本町通り】三井住友銀行横浜支店(市認定歴史的建造物)

馬車道(横浜市役所)駅
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本町通りの今昔と金融施設 -続・その昔のみなと横浜-

横浜の開港後。

現在の本町通り〜馬車道界隈にかけて、舶来品(数々の”日本初”や各種生活物資など)や輸出品(主に、当時の主力輸出品だった生糸・茶関連商品)を取り扱う、日本人の個人商店が立ち並ぶ時期が到来します。

厳密には、幕末の大火後の繁栄時、現在の関内エリアの一部(弁天通)は外国人向け商店街として、馬車道エリアは日本人向け商店街として、それぞれひらけていったという相違もあったようですが、ともあれ。

のちに民間金融機関のほか経済系の官庁、さらには物流・通関関係の民間組織等々のビルが林立するビジネス街(※1)となって現在に至る本町通り界隈や、商店街として繁栄の道を辿った馬車道商店街等々とは対照的に、元々は規模の小さい商社がひしめき合う形で、雑然と栄えていたことも地域一帯が持つ個性となっていました(※2)。

そうは言っても、右肩上がりの”交易”が物々交換で成立するものではない以上、各種商社等の繁栄に歩みをあわせる形で、通関業務や金融機関の”より一層の充足”も要求されるようになっていきます。

これらは全て近代・現代経済における必然を動機に含む動きにあたりますが、そんな時勢の中での本町通り・馬車道界隈の成長は、現在の山下町・山手町界隈に外国人居留地が設定されたこと、およびその中間地点に元町商店街が誕生したこと等々とも対を為す形で進み、やがて新港ふ頭や”赤レンガ倉庫”の誕生を促しました。

それでは、“馬車道・本町エリア”の全てはただ必然に沿って動いていったのかと言えば、然にあらず。

関東大震災の衝撃が、一旦開港以来の成長の全てを破壊してしまうんですね。

事後、貿易港・横浜における”通関”も”金融”も、等しく”帝都”(注)復興に必須の社会(経済)インフラであると捉えられ、かつ国策(帝都復興計画)として復興が優遇されたものの(※3)、前者が当時竣工したばかりだった新港ふ頭を中心としていたことに対し、後者は既に開港以来約半世紀にわたる発展の歴史を持った、馬車道・本町通り界隈を中心としていました。

このことが、”震災復興”によるリスタートに、“歴史の断絶”にまつわる軽重の別を生み出します。

結果、金融街等の成長も含みつつの総合的な盛期を迎えていた”横浜港そばの商業地区”本町エリアは、震災復興を契機として、日本大通りに直行する形でビジネス街を形成する、現在の本町通りエリアとしてリスタートを切る形となりました。

“被災と復興”による当初の想定にはなかった進展は、大正末期から戦前昭和期にかけての話ですが、現在の馬車道・本町通り界隈には、主にこの時期以降の歴史が色濃く残されています。

現在改修工事が進んでいる三井住友銀行横浜支店(以下、”三井住友”)もそのようなかつてを知る銀行の一行であり、なおかつ現在でもかつての建物が現役で使われているという、本町通り界隈唯一の銀行でもあります。

昭和6(1931)年3月に竣工したという鉄筋コンクリート二階建て(地下一階)の建物は、外壁に用いられている”イオニア式”(柱の上部にうずまき状の模様が用いられていることを特徴とする形)の柱頭に対して、二階部分が吹き抜けとなっている室内では、”コリント式”(円柱や多角形等を用い、最上部では天井に向かって広がる形)の柱頭が用いられています。

外観と内装であえて違った様式の柱頭を用意することで、施設をより壮麗に見せる効果が期待できるようで、この様式は”三井住友”が横浜に竣工した当時の銀行建築(をはじめとする、各建築物)の流行でもあったようです。

実際、”三井住友”と同じ米トローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所が設計を担当したという、東京都中央区の三井本館でもこの様式が採用されていますが、改修後も、旧”三井住友”の外観と内装の一部は復元・保存される予定です。

マップは”三井住友”前にあたる、本町一丁目バス停です。

竣工は目下28年予定、工事終了後も”三井住友”が(他三井住友グループの企業ともども)入居する予定です。

なお、今回の記事で取り上げた建物は、改装前のものです。

参考

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